皆さんこんにちは。「安斎育郎 平和 原発 ひりごと」の時間ですが、今日は実に元号が変わって最初の「令和-REIWA」元年の初日ですね。
元号というのは、ちょっと不思議な年代の表し方でね。世界中探してもこういう制度を持っている国は今はもうないですね。
日本で年代を表す方法は、まぁ、2つ余りあるんですね。まぁ、正確にいうと3つと言ってもいいと思うんですけども、例えば、安斎育郎さんが生まれたのは1940年っていうふうに西暦でいうこともできるし、昭和15年というふうに元号でいうこともできるし、もう一つが戦争の時代までは使われたのは皇紀2600年、皇紀のコウっていうのは皇太子のコウ、キは紀伊半島の紀、紀元前の紀ですね。皇紀2600年。
だから僕が生まれた年を指定するには、1940年といってもいいし昭和15年といってもいいし、皇紀2600年といってもいいっていうわけですね。うーん世界的に見るとやっぱり国境を越えて通用するためには好むと好まざるとにかかわらず西暦で表すのが習わしになっています。
西暦1940年といえばどこの国に行っても大抵通じる。そのままですね。
ところが昭和15年っていうふうに言ったんではですね、あのオーストリア行って、昭和15年生まれですって言ったんじゃ、いつの生まれかっていうこと、西暦でいうと何年?というふうに聞き返されますよね。おまけにこの国では紀元前660年に起源をもつ皇紀っていう表し方があってね。
私はちょうど皇紀2600年に生まれた。
前もちょっといったかもしれませんけれども、この皇紀で表した2600年の下2桁目00ですよね。
で、この年に開発された艦上戦闘機、日本の戦争でよく使われた戦闘機零戦っていうのがあるんですが、この零戦の0という数字は皇紀2600年に開発された下二桁の0をとって名付けられたんですね。
だから昔の人には皇紀何年という表し方も意味があったことは確かですね。
今年は何年かって言われれば、ええまあ、西暦で言うと2019年っていうことですけれども元号が平成31年から令和元年に変わったわけね。
皇紀で言うと何年かというと、2679年。なんで、そんな皇紀をスラスラ言えるかというと僕にとっては、2600年生まれだから、2600の後に自分の年齢を付け加えるとそれで皇紀になっちゃうので、今79歳だからね。
2679年という風に言えるわけですよね。
さてどうでしょうね、まぁ、国際化がこれだけ進んだ社会において未だに元号っていう天皇の在位期間にだけ通用する、そういう年代の表し方を使うことが便利かどうかという点で見ると、お役所などやってる人にもですね、いちいち 元号が変わるたびに証明書を発行するときの年代表記を全部改めなきゃいけないとかいうんで、大変にお金もかかるし面倒でもあるから、もういっそ西暦にしてほしいという人もたくさんいるんですね。
で、日本人で元号で歳を表してる人っていうのは、まぁ、2割ぐらいしかいないっていうふうに言われていて、だいたい6割の人は西暦を使っているんですね。さすがに皇紀を使っている人は滅多にいないですね。
ですけども、いないなくはないんですけども。私にとって割に2600+年齢だから表しやすいけどね。
まぁ、とにかく時間っていうのは、ま、始まりから、何時が始まりかってことないんだけども無限の過去から無限の未来にわたってずーっと流れていくものだから1本の線の如くですね。
だからそれは1次元の直線だからそれはあの西暦でも皇紀でもいいけれども、ずっとそれで通せば済むんだけども元号だけはですね、天皇の在位期間でその1本の線をぶつ切りにしてね、それぞれの短い線、昭和天皇というのは一番長く元号が昭和であった時代なんですね。
歴史を見てみるとたった1年で元号が変わったとかね。同じ天皇の在位期間なのに元号が変わったとかね。そういうこともあって複雑怪奇でわからないですね。大体は歴史学者でもなければ元和3年とか言われてもそれは西暦いつのことかっていうのは分からないですね。
いっそのことだから、まぁ、キリスト教的な考え方でいいヤダという人もいなくはないけども西暦っていうので一本化したらどうかっていう意見が僕の周りにも結構強いですね。
ま、しかし今日はめでたいと思う感はないか知りませんけども元号が変わった最初の日の放送っていうわけで、これはこれでなんか歴史的な場に居合わせたこのスタジオに居合わせる感慨っていいますかね、そんなものがありますね。
僕はいつも京阪電車っていうのに乗って、京阪三条徹子で降りて三条大橋を渡りながら声くんですが京都はやっぱり元号が似合う街っていいますかね。この古い時代から天皇の御代に応じていろいろな事件が記録記憶されているところですね。
三条大橋っていうのはいつ出来たか正確にはよくわからないと今日、三条大橋の袂にある説明板を見たら書いてありましたが、もう1590年にはあったっていうことだから江戸時代よりも前からあった歴史的な橋ですね。
もちろんその何度も建て替えられているんですけども南西東海道の起点ですから重要な橋なので壊れても壊れてもすぐ国家的な事業として立て直してきた、そして今日ある。今日使われている三条大橋の土台の柱には大昔から使われてもがそのままあるということで、なかなか歴史を感じるそういう歴史を感じる街にいると、新選組がいいつどんな事件起こしたかなんていうのは元号で言ったほうが感じが出るかもしれないけれども。
まぁ、我々のように外国人と接して日本の歴史の一端を紹介しなければいけないなんていうときにはやっぱり元号で言っても分からないんですよね。西暦に換算しなきゃいけない。換算がちょっと元号によって面倒ですよね。昭和の時代はわりに換算係数が簡単だったけども、まぁ平成もやっと慣れたかなと思ったら、今度また新たに変わるっていうんで換算係数、換算のやり方を習熟しなきゃいけないかもしれないですね。
皆さんは、あの「令和」っていう元号を何時どこで聞いたですけかね?
何時ていうのはだいたい発表されたのは4月1日の午前十一時半過ぎぐらいでしたね。僕は、沖縄にいたんですね。
沖縄の美ら海水族館のそばのレストランでいたんですが、誰か携帯見て大声で令和だってさって叫んでいて、みんなあのオーていう声が上がったわけでもなく、なんとなく予想と違ったのか比較的静かだったわけですよね。
発表されたのが4月1日だからもしかするとエイプリルフールかもしれないという気分もなくはないけど、まさかやっぱり天皇の代替わりのね元号発表の日にそれをエイプリルフールの題材にすることはないだろうというんで、みんな冷静に受け止めていたようでしたが、どんな感じで皆さん受けとったんですかねぇ。
僕はちょっとねやっぱりあの違和感があったんですね。
僕だけじゃなくってあの自由民主党の石破茂さんっていう安倍内閣総理大臣の対抗馬だった人ですけども違和感があるって言う感想の述べてましたね。
ちょっとそれも多少違和感があったんだけども、令和のレイっていう時が命令の令っていうイメージがあるから令和ってのは命令には穏やかに従えっていうのは感じとおもえなくはないので、まぁ、国民にじっくり説明する必要があるってなことを言ってました。
僕も、令ってていう字は令夫人とかねどっかのご令嬢と書いときに麗しいとか、美しいとか、この敬うべきっていう意味で使うといい言葉に使うけれども、まぁ一方では戒厳令とかですね命令とか号令とか禁止令とかね、なんか上からが命令するその時に使われる印象があるので令和ってのちょっと、最初に聞いた時におや?っていう感じがしなくもはないですね。まぁその後の世論調査などによると大方の人々が新しい令和っていう元号を受け入れつつあるようだということでありますけれども。
まぁ、あの、そういう議論の他にやっぱり国際化時代の今、元号に頼って年代表記するのかどうかっていう話もした方がいいでしょうね。それに関わって天皇制をどうするかっていうの議論も起こるかもしれませんけども。
これはこれで、なかなか、生まれながら天皇の人と生まれながら平民の人がいるということの持つ不平等みたいな問題は前から言われていますけれども、あまり議論が深まっていない。
で、もう圧倒的多数の国民が平成天皇のそれから皇后の立ち振舞いぶりを見てね場合によっては、ノーベル平和賞候補にしてもいいんじゃないかと言われるぐらい広く受け入れられてきたので、皇制をどうするかなんていう話まではなかなか進んでいませんけれども、そういう問題も考えるのがこの元号が変わる年の特徴かもしれないので、そういうことも話し合っていいのでしょう。
さてこの1ヶ月ぐらい考えてみると、実は4月17日、僕の誕生日の翌日4月16日に僕が79歳になったんですその翌日は長崎にいたんですね。
2007年4月17日に長崎の前の市長の伊藤一長さんっていう人が選挙期間中に長崎の駅前で鉄砲に打たれて暗殺された日なんですね。
僕が名誉館長をやっている立命館の国際平和ミュージアムにはその時市長が着ていた「ワイシャツ」、ピストルで撃たれた銃弾が2つ穴が開いて血が流れた、今は茶色くなってますけど、その痕があるんですが、それも展示してある。
そういう関係もあってご遺族とのつながりもずっとあって、4月17日には長崎であった慰霊式に参加しておりました。
こういう事件というのは事件が起こったときは大変大きな問題。
長崎は市町が2代続けて鉄砲で撃たれているんですけども、平和の街長崎でなぜそういうこと起こったのかですね。
伊藤一長さんってのは核兵器を廃絶するためにとても努力していた人、党派性を超えて努力していた人ですがそういう人がたった2発の銃弾によって命を失って核兵器廃絶のメッセージを発声する道を断たれた。
そのことの持つ重要性は平成から令和の時代になっても忘れてはならないことだと思うんですね。
機会があったら立命館の国際平和ミュージアムにお越しいただくと二階に伊藤一長コーナーがありますのでぜひ見ていただきたいと思います。
では、この令和の時代もよろしくお願い致します。
またお会いしましょうさようなら。