2019年という年
安斎育郎
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あけましておめでとうございます
「なぜ明けるとめでたいか」などという問いは、NHKのクイズバラエティ番組「チコちゃんに叱られる」の格好の題材になりそうですが、家々に降臨する年神様(田の神様〈たのかんさー〉)を無事にお迎え出来てめでたいということらしいですね。「家々に降臨する」というと何か物々しいですが、この前世界文化遺産に登録されることになった「来訪神」の一種でしょうか。
何はともあれ、新たな年をそれなりに健康で迎えられたことは確かにめでたいことですが、2019年を本当に「めでたい年」に出来るかどうか、かなり正念場という感じがします。
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2019という数字
数学好きというか、数字好きというか、2019という数字を見れば見たで、その特徴にしばし思いを巡らします。1から始まる自然数の中にはabという形に書ける「累乗数」というものがあります。小さい順に書けば、次の通りです。
1(12,13,14…)、4(22)、8(23)、9(32)、16(24、42)、25(52)、27(33)、32(25)、36(62)、49(72)、64(26,43,82)、81(34,92)、100(102)、121(112)、125(53)、128(27)、144(122)、169(132)、196(142)、216(63)、225(152)、243(35)
という具合です。そして、小さい順に並べた上の22個の累乗数を全部合計すると、実に2019になるのです!それが、どうした?
いや、別にどうということはないのですが、次にそういう年がやってくるのは256年後ですから、まあ、ちょっとぐらい感慨に浸ってもいいのではないか─ただそれだけのことです。つまり、
2019=12+22+23+32+42+52+33+25+62+72+82+92+102+112+53+27+122+132+142+63+152+35
昨年は2018年でしたが、この数は1009+1009と2つの素数の和で書けましたし、2018=132+432というふうに2つの平方数の和としても表せました。前者は「4以上の偶数は2つの素数の和で書ける」という「ゴールドバッハの予想」で、しかも同じ素数の和で表されるケース、後者は「フェルマーの二平方定理」に関係しています。だからどうということは何にもないのですが、言いたいことは、それぞれの年にはそれぞれの特徴があり、かけがえのない1年だということです。
でも、2019年は日本国民にとっては、そんな感慨に浸ってばかりはいられない重大な年でもあります。
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重大な国政課題の年です
今年は統一地方選挙と参議院議員選挙のある年ですね。主権者としての私たちにとって非常に重要な年です。
中でも最も重要な国民的課題を挙げれば、やはり、①ウソや隠し事のない政治・行政のあり方、②国家としての自主性の回復(核兵器禁止条約など)、③民主主義の形骸化の阻止(国会運営のあり方や沖縄米軍基地問題など)、④国家百年の計に責任をもつ政治のあり方(原発問題など)、⑤国の平和の枠組みを蔑ろにするような政治・行政のあり方(憲法問題、軍事研究など)などでしょう。
- については「モリカケ問題」を引き合いに出すまでもなく、とにかく安倍政権の虚偽体質は目に余るものがありました。「総理大臣、国会議員を辞する」といった「忖度構造」の大網をかける、明々白々な事実であろうと不都合な事実は一切認めない、平気でウソをつく、必要とあらば記憶や記録を抹殺し書き換えるのも辞さない、矛盾を背負って死をもって抗議する犠牲者が出ても冷酷に知らん顔をする、「忖度構造」の中で国民に対して不誠実極まりない行動をとる行政マンが出ても「適材適所」とうそぶくなどなど、書いているうちに胸が悪くなるような実態をずうーっと見てきました。この「うそぶき構造」は上層から下層に行き渡り、首相のお友達もうそつきを買って出るような、平然と虚偽・捏造を騙る体質を蔓延させていったように思います。「人間、正直に生きましょう」などと教育課程で言うも恥ずかしいほど、トップが堕落の極地に堕ちていると感じるのは、私の思い違いなのでしょうか?
- 国家としての自主性の回復は、由々しき問題です。2017年に国連で採択された核兵器禁止条約については、準備段階での会議にも日本も参加していましたが、途中でアメリカに言われて「唯一の被爆国」でありながら「一抜けた~」とばかりに抜けてしまいました。沖縄の米軍でも、アメリカに物申せない日本政府の立場は反県民的、反国民的です。沖縄県知事公室基地対策課の資料によると、復帰後の米軍関係者による事件・事故の総数は、「航空機関連の事故」が709件、「演習などによる原野火災」による焼失面積が381,163,866平方メートル、「米軍関係者による犯罪検挙数」が5,919件、そのうち凶悪犯が576件となっていますが、事件捜査や裁判の実態は「日米地位協定」によって制約され、アメリカ本位に終始しています。いくらアメリカ大統領とゴルフ仲間になって親しくなってみても、日本国民の人権を守って米軍の理不尽な行動に立てつくことも出来ないような政府は、国家としての自主性を放棄した「棄民の政府」と言われても仕方ないでしょう。
- このところの国会運営のあり方を見ていると、民主主義の形骸化は目に余るものがあります。数を頼みにいい加減な法案を出して十分な論議を尽くさないうちに採択して押し通す。法案審議の途中で法案が拠って立つ事実認識そのものが根底から疑われるような事態が何度も起こっています。政府与党の国会議員は票を担う兵隊、手駒となって、「政治日程」とやらに従って何が何でも評決に持ち込み最後は数合わせで天ぷらを揚げるように法案を成立させていく。そのツケは、法の実施の段階で矛盾となって表れてくることは明らかですが、「民主主義=多数決」という根本的誤解に基づく政治の堕落以外ではないでしょう。民主主義の形骸化は、普天間・辺野古問題では極限に達しています。行きつくところは「アメリカの意向」であって、戦後沖縄への米軍基地建設が「銃剣とブルドーザー」による基地建設と言われたように、沖縄県民の意向などどこ吹く風でごり押ししていきます。県民の意向はこの間の選挙結果にも明確に表れていますが、この悲しむべき地方行政と中央行政の対立は2019年には国政のあり方を左右する一つの重要な要素となるに違いありません。以前、平和友の会の「沖縄ツアー」で那覇市の「不屈館」を訪れましたが、ここは、米軍占領下の沖縄でアメリカ軍による圧政に抵抗する県民運動の先頭に立って活動した政治家・瀬長亀次郎さんの資料館です。県民の意向に徹底して誠実に寄り添い続けた瀬長さんには、今でも、『教えてよカメジロー』(知名定男作詞・作曲、ネーネーズ歌)という楽曲も作られて、県民に慕われています。日本政治のトップには「米国大統領にゴルフ仲間として気に入られた男」がいるのが現実ですが、カメジローさんは「米軍に最も恐れられた男」でした。「日米地位協定」は今年も重要な政治対決の発火点であり続けています。
- 国家百年の計に責任をもつ政治のあり方という点では、「原発ゼロ基本法案」は重大な国民的争点にまで関心を押し上げる必要があるでしょう。この法案は、第196回国会の会期中に立憲民主党・日本共産党・自由党・社会民主党が中心となって共同提案したものですが、自由民主党は審議に応じず、今年の課題として残されました。私は「福島プロジェクト」を立ち上げた後だけでも56回の福島調査を行なってきましたが、廃炉の技術的見通しさえもなく、大熊町・双葉町・浪江町などの「帰還困難区域」の現場に立つと地平線に至るまで人っ子一人住んでいない現状などを見るにつけ、この国の電力生産政策を原発に依存し続ける形で進めたり、海外への輸出に血道をあげたりするのは愚の骨頂としか思えません。ベトナムやイギリスも含めて海外展開は次々と破綻しつつありますが、野党共闘の眼目の一つとして「原発ゼロ基本法案」が注目を浴びることを期待しています。私はかねて、原発の電力を使うのは私たちだが、その後始末は今生まれてもいない未来世代であることから、私たちは未来の子々孫々に立ち替わって「時を超えた民主主義」の実践者でなければならないと主唱してきました。数を頼んだり、目先の利権を追求したりするのではなく、国家百年の計、千年の計を考えなければならないでしょう。
- 国の平和の枠組みを蔑ろにするような政治・行政のあり方の点では憲法的枠組みを突き崩そうとする試みや、大学を軍事研究に駆り立てようとする営みには「ノー!」の声を明確に突きつける必要があるでしょう。現政権は支持多数と見て改憲の練習をしようとしていますが、初めて憲法に手を付けた男とか、史上最長の内閣とか、名を残すことに興味・関心があるようですが、国民の名において、「ボーっとしたこと考えてんじゃねーよ!」と叫ぶべき時でしょう。
政府与党は10月の消費増税を控え、「亥年現象」(亥年の参議院議員通常選挙において、自由民主党が苦戦を強いられるとする元朝日新聞記者の石川真澄氏の仮説)に怯えている面もあるようです。「今年の選挙は面白い」と面白がっている筋の人々もいますが、私たち有権者が抱える矛盾を国民的争点として際立たせ、政治・政治家・主権者・民主主義のあり方を根底から問い直す年にしたいものです。