平和友の会会報「世相裏表」2017年6月号

平和友の会会報「世相裏表」2017年6月号
政権の腐臭を嗅ぎ分けよう

 「きな臭い」という言葉は、戦争に向う雰囲気が漂う場合などによく使われるが、この政権が漂わせている臭いは何と形容すべきだろう。「腐臭」としか言いようのないような不快極まりない悪臭だ。人々は、この悪臭に平然と耐えられるのだろうか。それとも、まだそれなりの支持率があるところを見ると、多くの人々が不感症に陥ってしまっているのかと、ちょっと不気味な気がしてならない。
 私はいま立命館大阪プロムナードセミナーで「落語を通して語る戦争・平和・人権」(全6回)を講じているが、第2回講座で「はなし塚」のことを紹介した。太平洋戦争の開戦5週間ほど前(1941年10月30日)、東京・浅草の本法寺に「はなし塚」が建立され、落語53話が「禁演落語」として封印された。「子わかれ」などの人情話や「五人回し」などの廓話は、兵隊さんが命を賭けてお国のために戦っている時世に相応しくないというのだ。政府がそう命令した訳ではないが、落語家たちが「忖度」したのだ。まあ、大枠で国民を締め付けておいて、国民がその意を解して自発的に振る舞いを律する(自主規制)─それがスマートだという訳だが、「言われないうちに(率先してか不承不承かは別として)こっちから自己防衛的に政府の意のあるところを先取りして屈服するような行動は危ない。もっとも、加計学院のケースのように、現在の日本政府はスマートどころか下品極まりない立ち居振る舞いで、明々白々な証拠を突きつけられても「怪文書」「確認できない」「同姓同名の人はいる」などといういい加減な答弁で押し通す厚顔無恥、国民蔑視、国会無視の姿勢を貫いている。「見下げたもんだよ地下鉄工事」もいいところだ。首相や官房長官が質疑中に薄ら笑いを浮かべたり、野党からのヤジに執拗に「抗議」したりするのは答えに窮している何よりの証拠だが、内閣支持率が急落したところを見ると、国民の多くも腐臭を嗅ぎ付けているらしい。内閣支持率が保たれてきたのは「だって他にいないじゃん」ということらしいから、野党が独善的政権党に対して「ウソのない透明性のある政治」を原則とした対抗軸を確立することが不可欠だろうし、「どうせそんな対抗軸など出来やしない」と高をくくっている政権が無視できないような「原則的にして柔軟な、かつ、それなりの信頼性があるネクスト・チーム・ジャパン」を明確に指し示す必要があろう。みこしの担ぎ手が国民の信頼を傷つけるような言動をとった場合の対処法も明確化すること大切だと思う。
 前述の「はなし塚」が出来た3週間後の1941年11月20日に生まれた人物に「無言館」館主の窪島誠一郎氏がいる。6月4日、第20回無言忌に出席するため、長野県上田市の無言館を訪れた。画学生の絵を提供したご遺族が高齢化して出席が困難になりつつあることや、無言館開設に当たって窪島氏と緊密に協力した野見山暁治画伯(文化功労者、文化勲章受章者)も96歳になって気軽に出席して挨拶するようなことが難しくなっていることもあり、窪島氏としては、6月第1日曜日に無言忌を開催する従来方式は今回が最後かもしれないと考えているようだ。私は請われるままに挨拶に立ち、次のような話をした。私は「無言館京都館いのちの画室」を開設している立命館大学国際平和ミュージアムの名誉館長という立場に加えて、現在は無言館の理事という立場でもある。

 今朝(6月4日)のニュースで、アメリカの科学者たちのデモが報道されていた。トランプ政権は、トランプなのに「ダイヤはあってもハートがない」と言われるが、そのダイヤについても環境問題や科学研究への配分が減らされ、科学者たちが怒っている。プラカードに“Science, not Silence”とあり「科学者も黙ってはいない」という意思を表示していたが、silenceは普通「沈黙」とか「無言」と訳される。ここ「無言館」を英語で紹介する場合に“Silence Museum”でいいかどうか窪島さんに聞いたことがあったが、「それは不適切。無言館はMugonkanだ」と言われたことを思い起こす。展示されている絵は反戦・不戦・非戦・抗戦などを声高に発信している訳ではないが、画家たちが戦争によって自己実現の道を理不尽に断たれていった事実と合わせて考えるとき、無言館の作品群は「無言のうちに」戦争の非人間性を雄弁にアピールしている。決してsilentではない。先程も館内で太田章さんの「海辺へつづく道」を鑑賞したが、真夏の真昼近くの油照りの静かな漁師町を描いたものだ。やがて本土が戦場化して全国の村や町が焦土と化し、この絵を描いた画学生も戦場で命を落とした。画家として生きて自己実現を遂げる道を閉ざされた悲劇は、戦争の非人間性を告発するものでなくて何だろう?
 ひるがえって昨今の状況を考えると、この国には今、あの戦前の時代に回帰するような不穏な雰囲気が漂っているように感じられる。
 今年「無言館」は、開設20周年を迎えた。O. Henryの作品に“After Twenty Years”という短編があり、その中に“Twenty years is a long time”(20年って言えば長いからなあ)というセリフが出てくる。主語が複数形なのに動詞が単数形なので印象に残っているのだが、先日、開設10周年を迎えた「戦争と平和の資料館ピースあいち」の式典に出席した時、新村出さんの『広辞苑』編纂事業を受け継いだ新村猛さんのご長女の原夏子さんから、ある資料の寄贈についてお申し出を受けた。新村さんが同志社大学予備門の教授だった1937(昭和12)年に、その思想性が治安維持法違反に問われて逮捕、投獄されたのだが、原さんはその時の新村さんの調書類2綴りをいずれ国際平和ミュージアムに寄贈することを検討中だという。あの温厚な新村猛さんが治安維持法違反に問われ、2年間の獄舎につながれた時代があったのだ。私は新村さんとは1970~80年代の原水爆禁止運動の統一の動きの中で親しくして頂いた。
 あの治安維持法が猛威を振るっていた時代、俳人たちも弾圧されていた。俳人の金子兜太さんや「無言館」館主の窪島誠一郎さんが、「昭和俳句弾圧事件」に関する史碑を建立することを計画し、私にも呼びかけがあったが、私は、史碑の裏面に刻むべき作品の候補に西東三鬼の「昇降機しづかに雷の夜を昇る」と示唆しておいた。世間が雷雨で大荒れに荒れている夜、エレベータが静かに昇って行くという句意だが、新大阪ホテルに投宿した夜に三鬼は「自然と機械の対照」「動と静の対照」を描きたかっただけだが、官憲は「社会の混乱の中で革命思想が静かに浮揚する」と解して治安維持法違反容疑に問うたのだ。治安維持法の立法過程では、内務大臣の若槻礼次郎(後の首相)が「わが国は表現の自由を抑圧するような政策はとらない」と説明していたのだが、一端成立すると社会運動弾圧の道具として乱脈に適用され、やがて全面的に改悪されて「稀代の悪法」として人々を弾圧していった。現在国会で議論されているいわゆる「共謀罪」についても、そうした懸念はないのだろうか?
 私は京都府宇治市に住み、あの戦争の時代の昭和18(1943)年~昭和20(1945)年に日本に留学中に治安維持法容疑で逮捕され、獄死した朝鮮の詩人・尹東柱(ユン・ドンジュ)の記念碑を建立する運動の代表を務めています。東柱は立教大学に留学したのち京都の同志社大学に移籍、1943年の初夏、在籍中の同志社大学のクラスメートとともに宇治川のハイキングに訪れて天ケ瀬の吊り橋に赴き、現在確認されている限り東柱の遺影ともいうべき最後の写真を残した。しかし、東柱はこの写真を撮影して間もなく、京都の下宿先において「治安維持法違反容疑」で従弟の宋夢奎(ソン・モンギュ)らとともに下賀茂警察署員に逮捕され、朝鮮独立についての友人との会話などが「民族運動の扇動」に当たるなどの理由で翌1944年2月22日に起訴され、その40日後の3月31日に京都地方裁判所で懲役2年の判決を受けた後、福岡刑務所に収監中に不審な注射を繰り返されたのちに、1945年2月16日、若干27歳の若さで獄死した。戦後この判決は取り消されたが、宇治市民は、国の枠組みを越えて「記憶と和解の碑」を建立し、歴史の真実を踏まえて過去と誠実に向き合おうとしている。
 無言館に展示されている絵は、それ自身が反戦・不戦・非戦・抗戦を声高に叫んでいる訳ではないことは先に述べた通りだが、2度と自己実現が戦争によって阻まれるような世の再来を防ぐために、「過去と誠実に向き合うこと」が不可欠であり、私はそのことを展示原理としている立命館大学国際平和ミュージアムの名誉館長として、また、無言館の理事に就任した現在、この事業の一層の発展のために努力を積みたいと考えている。

カテゴリー: