川内原発の再稼働はなぜ8.11なのか 

2015.8.20 藤田明史

 原子力規制委員会による原子炉起動に関する検査の完了を受け、九州電力は2015年8月11日、川内原発1号機(鹿児島県薩摩川内市、加圧水型原子炉、89万KW、1986年運転開始)の再稼働を行った。約2年間続いた「原発ゼロ」に終止符が打たれたのだ。
 しかし、なぜ8.11なのか? 私はここに、安倍政権を中枢とする日本の支配階級の強い意志を感じる。それは次の三つのメッセージを発しているように思える。
 第1は、〈フクシマはすでに過去のものである〉との言明である。2011年3月11日、東京電力福島第1原発の過酷事故が起った。しかし起ったことは取り返せない。それがいかに苛烈であろうとも、我々はこの現実を受け入れるほかないのである。前進あるのみだ。
 第2は、〈核燃料サイクル・核抑止政策は不動である〉との言明である。8.11の原発再稼働は、8.6と8.9の直後に行われた。これは何を意味するのか。ヒロシマ・ナガサキ後の世界の安定は、核抑止によってこそ維持されている。これが現実なのだ。そうである以上、我が国に潜在的な核抑止力をもたらす核燃料サイクルを止めることはできない。それは我が国が存立するための不可欠な条件でさえある。
 第3は、〈「頼れる『力』」としての日本を作る〉とのメッセージである。その力の象徴が「核」なのである。ゆえに、原発の再稼働は不可避の課題であった。そして、そうした「頼れる『力』」としての日本の努力を我々は「積極的平和主義」と呼ぶのだ。だからこそ、8.14に行った内閣総理大臣談話の最後で我々はこのスローガンに当然にも言及したのである。
 しかし、こうした言明に正当性があるのだろうか。到底あるとはいえない。なぜなら、いまも避難生活を強いられている福島の人々、核廃絶を祈念し続けるヒバクシャ、基地の重圧で生活を破壊されている沖縄の人々の存在を、これらの言明は徹底して無視するからである。彼らの叫び・祈り・怒りはこの国の支配者たちには届かないのだ。なぜか?
 われわれがいま眼前に見ているのは、「多数者の専制」(ミル『自由論』)ではないだろうか。これはどんな社会にも見られるかなり普遍的な現象である。日本の特殊性は、これがこの国の最も基本的な価値(憲法9条)にかかわって現れていることであろう。ここからの脱出口はどこに見出せるのか?
 「多数者の専制」は、「寄らば大樹の蔭」というきわめて非合理的な行動様式によって支えられているのに相違ない。だから、われわれがより自由になり、自分の頭で物事を考え、より合理的に行動するならば、こうした現象はなくなる。そのためには、社会の少数者の声にわれわれはもっと敏感に耳を澄まさなければならないのである。
 日本社会の変革の突破口は、原発の再稼働に抗し、われわれがより意識的に「脱原発」の態度を明確化することにあるとさえいえよう。
 

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