詭弁

                                                藤田明史

 野田首相の大飯原発再稼働をめぐる記者会見(2012.6.8)を聞いて、私は英国の数学者バートランド・ラッセルの一つのエピソードを思い出した。ある晩餐会で、「矛盾した命題からなら、何でも好きなものを証明できる」ということが話題になった。ラッセルが「矛盾した命題を一つ挙げてください」というと、食卓の誰かが「“2=1”ならどうでしょう」といった。
「結構です。ところで、あなたは私に何を証明させたいのですか」とラッセルが応じると、その人は「あなたがローマ法王だということを証明していただきたい」といった。それへのラッセルの答え―「ローマ法王と私は二人であるが、二は一に等しい。それ故、ローマ法王と私は同一の人間である」。

 冒頭、野田首相は「国民生活を守ることが、拠って立つ唯一絶対の判断の基軸である」と述べた(これを「命題1」と名付けよう)。そして結論として、首相は、「国民生活を守るためには大飯発電所3・4号機を再起動すべきである」と述べた(これを「命題2」と名付けよう)。命題1から命題2に至る推論は、私には一種の詭弁のように聞こえた。なぜそう思ったのか。このことを考えてみたい。

 命題1における「国民」には、当然、福島の被災者も入っているに違いない。だからこそ、「次世代を担う子供たちのためにも、福島のような事故は決して起こさない」ということが、「国民生活を守る」ことの意味する第一として挙げられたのである。

 しかし、命題2における「国民」には、福島の被災者は入っているのだろうか?  福島の被災者に関して、首相は次のようにいう。「福島で避難を余儀なくされている皆さん、福島に生きる子供たち、そして不安を感じる母親の皆さん、東電福島原発の事故の記憶が残る中で、多くの皆さんが原発の再起動に複雑な気持ちをもたれていることはよくよく理解できます。」これは当然のことである。しかし、と首相は続ける、「しかし私は、国政をあずかる者として、人々の暮らしを守るという責務を放棄することはできません」と。ここで、「国民生活を守る」を「人々の暮らしを守る」と言い換えているが、内容は同じことである。すなわち、文脈から推して、ここでの人々=国民には、福島の被災者は含まれていないのである。彼・彼女らは除外されたのだ。「再起動させないことによって生活の安心が脅かされることがあってはならない」との言葉は、これを裏付けている。なぜなら、再起動させないことによってこそ、福
島の被災者は生活の安心を得ることができるのだから。

 命題1での「国民生活」の「国民」には、福島の被災者が含まれている。しかし、命題2での「国民生活」の「国民」には、福島の被災者は含まれていない。すなわち、「福島の被災者は国民であって国民でない」。これは矛盾した命題である。しかし、だからこそ、「国民生活を守るためには大飯原発3・4号機を再起動すべきである」といった「何でも好きな命題」が「証明」されたのであった。

 国民の生活に最高の責任を負っている者が、こんな詐欺師まがいの詭弁を弄していいのだろうか。こんなことで国民は納得すると本気で思っているのだろうか。まともな政治家ならば、福島原発事故の実相をしかと見据え、何をどう判断するにしても、まずは福島の被災者の声に真摯に耳を傾けることから始めるべきではないのか。

(2012.6.21)

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