マックス・ウェーバーの「教壇禁欲」について

2012年10月28日、立命館大学で第24回日本生命倫理学会(大会長:立岩真也・立命館大学大学院先端総合学術研究科教授)が開催され、私は、特別講演「福島原発事故と生命(いのち)――研究者の倫理を考える」を担当しました。大会実行委員会は、私が40年程も前、国が地震列島の電力生産の担い手として原子力発電を位置づけ、この「生命に深く関わる技術利用」を国家政策として大規模に推進する中で、私が、さまざまな抑圧に抗しながら、自ら信じるところに従って原発政策批判に取り組んだ事実に目を向けたようです。
 この問題は基本的には「科学と倫理」あるいは「科学と価値」の問題であり、「科学者と価値観」「科学者と倫理観」の問題です。この日の講演で、私は、「今日の話の枠組みは、19世紀後半から20世紀にかけて生きたドイツの経済学者・社会学者マックス・ウェーバー(マキシミリアン・ヴェーバー、Karl Emil Maximilian Weber)が設えた土俵をあまり出ないだろう」と述べました。それは、私がマックス・ウェーバーの影響を受けたというよりは、私が人生の途上で出くわした様々な自然現象や社会現象について考え、加藤周一さんなどとも対話しながらある時点で心の中を整理したら、まあ、それがマックス・ウェーバーが設えた土俵と似たものだったということなのです。
 ウェーバーと同じように、私は、「真偽の判断が人の好み(価値観)に依存しないような命題(例:2+3=5)」と、「それぞれの人の好み(価値観)によって真偽の判断が違い得るような命題(例:ピカソの絵は素晴らしい)」の2種類があると思っています。「命題」というのは、「人間の判断を文章や数式や記号で表したもの」のことです。前者は「客観的命題」、後者は「主観的命題」と言ってもいいでしょうが、私は「科学的命題」と「価値的命題」と呼んでいます。科学的命題の場合は、その命題が「正しいか」「正しくないか」は、判断する人の価値観に依存しません。誰がやっても、どんな宗教を信じていようが、トマトが好きだろうが嫌いだろうが、「2+3」は「5」です。しかし、「ピカソの絵が素晴らしい」と思うかどうかは、好み(価値観)によって違います。どんな絵に価値を見出し、どんな絵に価値を見出さないか、それは人によって違うでしょう。だから、価値的命題の真偽は価値観に依存します。だから、人生には「科学的命題」と「価値的命題」があるという二分法は、私も基本的に採用しています。その意味で、マックス・ウェーバー的なのです。
 しかし、その一方、マックス・ウェーバーが言う「教壇禁欲」という考え方には、とても賛成できないのです。ウェーバーは、平たく言えば、「教壇に立つ大学教員は、自分の価値観をあらわに振りかざすようなことはせず、価値中立的な命題を扱うべきだ」と言うのです。ウェーバーは、当時の大学教授たちが体制擁護的な政治的価値観を振り回していたことに危機感を感じ取ったのでしょう。その気持ちは分かりますが、しかし,われわれ自身が大学教育で価値中立的な命題だけしか扱わないようなら、大学教育を死滅させかねません。誰がやっても同じ結論が出るような命題群を系統的に学習することは勉強になることは確かですが、果たして学問の社会的役割に相応しい生き生きとした教育になるでしょうか?
私は、大学教員が自分の価値観を踏まえて福島原発事故などの同時代の社会現象を論評し、「私ならこう考える」という教員なりの見解を学生たちに語りかけ、学生たちの思考に刺激を与えることについては「禁欲」的である必要はなく、大いに推奨されるべきものであると思うのです。例えば、時代の支配的な価値観が人々を戦争へ戦争へと追いやろうとしているような場合に、それに対して批判的な価値観の立場から講義を展開し、「私はこう考える」という立場を鮮明に訴えかけることはとても重要でしょう。
大学教員が「禁欲的」でなければならないのは、むしろ、そのような自らの価値観を鮮明に打ち出した問題提起に対して、学生が学生自身の事実認識や価値観に基づいて存分に批判する自由を決して抑圧したりしてはならないということでしょう。教員と学生は自ずから知識量も社会経験の豊かさも違うでしょうし、ましてや、教員は、ある意味では、成績をつけて学生に単位を与奪する立場にある「権力者」でもあります。その「権力」を振りかざして学生による自由な批判的論陣に茶々を入れたり、軽蔑的態度をとったり、弾圧したりすることには最も「禁欲的」でなければなりません。
だから、大学教員は、時代の暴力的な価値観について自らの価値観を対置して論評する完全な自由を保証されるべきで、むしろ、「大学の講義では教壇禁欲的であるべきだ」という規範を持ち出してそうした自由を押し潰すことにこそ「禁欲的」であるべきだと思います。
もちろん、教員であれ誰であれ、「科学的命題」についてはその真偽について正確な事実認識を踏まえて論じるべきであり、意図的に「隠したり、ウソをついたり、過小/過大評価したり」することは避けるべきことは言うまでもありません、しかし、福島原発事故についてもそうした原則を踏み外す幾多の事例が見られました。原発政策を推進する側に身を置いてきた大学教授たちが、事故直後のニュース解説番組に登場し、彼らなら当然把握できていたはずの核燃料の溶融の危険性などについて過小に印象づける言説を振りまきました。生命倫理学会でも質疑討論の時間に厳しい指摘がありましたが、原発を推進する政策に身を寄せてきた専門家が事故の深刻さを覆い隠すような言辞を振りまいたことは極めて反倫理的でしょう。また、私の知人である日本大学の野口邦和さんは東京の講演会で、「ECRR(欧州放射線リスク委員会)のクリス・バズビー氏は福島では数十万人が死ぬと言っていますが、先生は何人死ぬとお考えですか?」と問われたそうですが、福島の住民たちの正確な外部・内部被曝線量の把握さえも不確かな時点で、「数十万人が死ぬ」などという結論を導く「科学者」も、被災者を傷つけるだけで、科学的命題に誠実に対応しているとは言えないでしょう。さらに、日本生態系協会の池谷奉文会長は、2012年7月9日に開かれた日本生態系協会主催の「日本をリードする議員のための政策塾」で、「福島ばかりじゃございませんで栃木だとか、埼玉、東京、神奈川あたり、あそこにいた方々はこれから極力、結婚をしない方がいいだろう」「結婚をして子どもを産むとですね、奇形発生率がどーんと上がることになる」と述べたことも、被災者に対する偏見や・差別を助長する非科学的な言辞であり、事実に基づいて科学的命題に誠実に対応する態度とは無縁のものでしょう。
私は、引き続き、科学的命題には出来るだけ正確な事実認識と論理に基づいてそれなりの誠実さで対応するとともに、こうした破局的な事態を招いた背景にあるアメリカの対日エネルギー戦略や日本の政財界の価値観に関しては、私なりの価値観に基づいて批判し、大学の教壇にあっても学生たちに問題提起し、同じ目線で考えて行きたいと思います。

カテゴリー: 原発関連