ラジオ番組:平和・原発・ひとりごと 2019年2月号

ラジオ番組:平和・原発・ひとりごと 2月号

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FM797京都三条ラジオカフェ
番組ダウンロードURL

http://radiocafe.jp/201704001/episodes/2019-2-6oa/

以下、放送聞き取りテキストです。

 

皆さんこんにちは。

安斎育郎 平和 原発 独り言の時間がやってまいりました。

もう2月ですね。この前、あけましておめでとうと言っていたんですが、もう一年の8%が経っちゃったのかな。

早い気がします。今日このスタジオに来る時にも、いつものように京阪三条で電車降りて、三条大橋を渡りながら来たんですが、お昼時に近い時間帯に来ると、あの土手に座ってお弁当などを広げると、ハトとかカラスがやってくるんですよね。

狙ってるんですね。私も前、狙われたことがありましたけれども。橋を渡って自分自身の買い物をするためにコンビニに寄って、三条河原町の交差点まで来ましたら、物凄い音を立てたパトカーが2台、30秒間隔ぐらいで、ものすごいスピードで北の方に走って行きましたけど、何か交通事故なのか、あるいは事件なのかですね、ただならぬ雰囲気でありました。

まあ、そういうのを見聞きするにつれて、自分が今のところ安全に日々暮らしてることについてホッとするような、これからも気をつけなくちゃっていう感じになりますね。

さて1月にも下旬に福島に行ってきました。57回目の訪問でしたけれども、今、保育園に火傷の散歩ルートの見立てとか、あるいは毎日出す給食の食材の放射能検査・・・このところ、やってもやっても放射能無しという結果しか出てこないので、資料を作るのがかなり大変で、労力を取られるんですね。

だからもうやめてもいいのではないか?っていう声が保育園の保育士の間にもおこってるなかで、いつ、どういう理由でやめたらいいのか?っていうのを悩んでるので、その相談にも行ってきました。

人間なんかことを始める時には、理由があるもんだから、放射能の汚染が心配だから食品を計ろうとかいうそういう理由があって始めるんだけれども、ずっとやってるうちにも、もう何も放射能が検出されない くなって毎日毎日、測定表に” ND = not detectable ” 測定限界以下ですね。

そういうの書き込む為に終了時間がかかって作ってるっていうのが、保育の他の仕事も忙しい中でいつまでやる必要があるのかちょっと悩ましいところなんですね。その相談に乗ってきました。

でも、ちょっと前に示唆したかもしれませんけれども、私は「10年目、軟着陸作戦」っていうの提案してきたんですけども。

今すぐやめても、まあ放射線防護学的には、何の問題もないけども、人間がやっぱり気持ちが大事だからね。今急にやめると、保護者も含めて大丈夫か?という不安が残るといけないので、10年目、事故が起こったのが2011年3月11日だったから、2021年 3月11日をきしてやめるかどうかの最終判断をすることにして、それまで今までやってきた測定を少し緩めてね、測定する品目を減らすとかいう工夫をして、だんだん減らしていって、2011年3月11日から10年目、2021年ですね。

今から2年後ですけども、そこに、何か学習会とか講演会とか、市のこういう放射能担当の人を呼ぶとかして、保育園における給食の放射能汚染の現状はどういうものかってことについてみんなで学びあって、それならこの保育園で測定するのを一区切りさせてもいいでって、判断をしたらどうかってんで、「10年目、軟着陸作戦」の提案したんですが、わりに気に入られたようで、これから具体化するってことになりました。

それから、農家が今年も作物の栽培をするんだけども、汚染環境は大丈夫かどうかっていう相談にものった上で浜通り太平洋側の楢葉町っていうところにある、宝鏡寺、宝の鏡の寺と書くんですが、浄土宗の室町時代以来の古いお寺で、ここに行って、和尚さん早川篤雄さんと言うんですが、この和尚さんと40年来、原発反対運動一緒にやってきたので、「原発悔恨伝言の碑」、原発を批判する活動をやってきたけども、それをついに作らせてしまったうえに、こんな大事故を起こしてしまったことについての悔恨ですね、そして、そういうことを二度と起こさないようにという伝言が伝わるように、一生懸命取り組んましょうっていうことになったんですね。

私がその「原発悔恨伝言の碑」に刻む詩を書いたんですけども、その詩を高さ1 M 幅2 M ぐらいの畳一畳よりも大きいぐらいのものに書いて、そこに、浄土宗のお寺だから阿弥陀菩薩の像をどてんと置いてですね、そして、少なくとも数世紀その伝言が伝わるように、一生懸命取り組みましょうっていうことになったんですね。

その時にちょっと和尚さんと話したんですけれども、浄土宗っていうのはあの鎌倉時代に現れた仏教で南無阿弥陀仏という風に唱えると救われるって言うんだから、念仏を一所懸命唱えようということですね。

それまでの平安仏教は京都を中心にしてありましたけれども、真言宗とか天台宗とあったんですけども・・・鎌倉時代になると 戦争ですね。武士の間の戦いが起こって武士の中には、人を殺した人もいるわけです。当然ね、そういう人でも救われるのか、どうかって、武士にとっては非常に深刻な問題なんだけども、南無阿弥陀仏と一緒に唱えれば救われるって言うんだね。

それはかなり高い支持を受けたわけですね。まあ、天台宗、比叡の山にある天台宗のお寺などでは、ご存知かと思いますが千日回峰行なので1日に30 km ぐらいの道のりを山を駆け巡ってそれを1000日やった上で、一週間ぐらい飲まず食わずで修行すると救われるてんだけども、とてもそんなことやってられないのだからね。それで、しかも自分はの戦争で戦に駆り立てられて、刀で人を殺したりなんかもしてる、命を殺めているので もう絶望的なんですけど、それでもやっぱり死んだ後はできれば極楽に行きたいっていうわけで、そのためにはどうしたらいいかって言うと、南無阿弥陀仏と唱えれば言ってんだからこれはすごいですね。

浄土宗の後に、ご承知でしょうが浄土真宗っていうのができて、親鸞って和尚さんがつくる。

こちらも南無阿弥陀仏と唱えるんですけども、親鸞聖人は南無阿弥陀仏と唱えれば救われて、唱えないと救われないなんていうケチなことを仏様言わない、仏様は全員救うんだってね。

思わず口をついて南無阿弥陀仏と出た時には、自分が救われてるって事は自覚した瞬間だってんで、同じ浄土宗、浄土真宗で南無阿弥陀仏を唱えるけど、その意味合いは歴史的にそれなりの違いがあるんですけども、和尚さんさんと話したのは、阿弥陀仏という音阿弥陀様の「あみだ」というのはどんな意味だったのか?

僕は何か物事の元々の意味とか考える癖があってね。「あみだ」ってのはサンスクリット語の「あみた」は、「ア プラス ミタ」、「ア」ってのは、何々ではないっていう否定の接頭子なんですね。

「ミタ」っていうのは、推し量るという意味なので、「アミタ」っていうのは、推し量ることができない広大無辺な宇宙の原理ですね。とても人間が推し量ることができない、計り知れないそういうものの存在を「アミタ」とこう言ったわけですね。

それに対してですね、僕の方は原子力なんていうものにずっと関わってたので、「アトム」の世界に関わっていたんですが、「アトム」ってコトバは、また「ア プラス トム」から成り立っていて、「ア」ってのは、何なにではないって言う否定の接頭で、「トム」というのは、ちょん切るっていう意味なんですね、ギリシャ語でね。

今でも病院に行くと 「CT スキャン」 「コンピュータテッド トモグラフィ」という「断層撮影」っていうのがありますが、「トモグラフィー」の「トモ」は、切るって意味で、人間を輪切りにするように撮影するので 「CT スキャン」「コンピューテッド トモグラフィ」ですね。

だからアトムの世界っていうのは「ア プラス トム」切ることができない、それ以上細分化することができない物質の最小の単位のことを「アトム」と、こう名付けたんですね。

ジョン=ドルトンっていう人が名付けたんですけども、この人はもう小学校の時代から学校の校長先生だったっていう変な人っていえば、変な人ですけども、驚くべき人ですけども、この人の時代にはまさにこれ以上細分化できない最小の単位として「アトム」と名付けたんだけども、その後の研究によって原子そのものが内部構造を持つ、つまり、原子もさらにちょん切ることもできて、原子核と電子とかね、その原子核のさらに陽子と中性子とか、より細い素粒子ってのに分けられることが分かってきたけども、今でも原子のことは、「アトム」と言ってんですね。

片っぽの浄土宗の早川和尚さんは、計り知れない広大無辺なものに対する信仰をベースに人生を刻んできて、私と同じ今78歳なんですけども、一方の私はこれ以上切り刻むことができない宇宙の最小単位としてのアトムの世界に関わって78年来たんですね。

その二人、広大無辺なるものとこれ以上細分化できない二人が福島の原発問題で会って、今は共同で記念碑を作ろうとしてるってのは、何かそれ自身とても面白い事に感じてね、お金もかかることに相違ないんですけども、2021年のそれこそ3月21日、さっき保育園が食材の放射能のチェックを一区切りつけをかって、その原発事故から10年目には、お披露目ができるようにしたいということで、今、私がその畳一畳分あまりの詩をためしに書いていって、その上にどれくらい大きな阿弥陀様の像も置けばいいかってね、それをさらに次に 会う時には詰めていこうということになったんですね。

まあ、我々、1968年ぐらいから私はこの国の原発政策批判をやって、もうだからちょうど50年前ぐらいになるんですけれども、その原発が反対運動にもかかわらず、日本に54基もできて、そのうちの一基が自然災害に巻き込まれて、とてつもない人類史的な事故を起こしてしまったっていうことについては、とても悔やまれる、もっと何かやり方はなかったのか?っていう風に悔やまれますけどね。

まあ、これからも早川和尚さんとも協力しながら、後世にこういうことが起こらないように、みんなで努力しようではないかっていうことを伝えていきたいというふうに思っています。

福島は、今2月、今月は寒くて雪が降る恐れがあるので、放射能の測定も 実態が雪で放射線が隠されてしまう恐れがあるので、2月はお休みですが、3月からまた福島に赴いて毎月の福島調査を続けていきたいと思っています。

来年には80歳になりますけども、この調査には年齢制限はないので、今しばらくは続けていきたいと思っております。

また来月お会いしましょう、さようなら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カテゴリー: 原発関連