第17回「早川篤雄さん、福島反原発住民運動」-放射能から命を守るシリーズ-

-放射能から命を守るシリーズ- 第17回 前半部

放射能から命を守るシリーズ第17回目の今回は、福島からゲストを迎えて、福島原発の住民反対運動についてお話をお聞きしました。


ゲストは、福島県楢葉町の宝鏡寺住職、早川篤雄(はやかわ とくお)さんです。
安斎所長とは、1973年9月18日に開かれた日本初の原発公聴会からのおつきあいです。

※日本初の原発公聴会(福島第2原発(福島県楢葉町・富岡町)建設計画に関する”原子炉の設置に係る公聴会”)1973年9月18日福島で開催。

安斎育郎:
安斎科学・平和事務所では、シリーズで「放射能から命を守る」という映像をずっと提供していますけれども、今日は特別のゲストを福島県からお招きして、お話をうかがう形で進めたいと思います。

早川篤雄(はやかわとくお)さんとおっしゃるのですけれども、ここに原発事故による汚染の地図がありますけれどもここが福島第一原発で、早川さんのお宅はここで、楢葉(ならは)で、宝鏡寺(ほうきょうじ)という、宝の鏡の寺と書くお寺ですが、室町時代以来伝わっている浄土宗のお寺の第30代のご住職として地元でずっと活動されてきたんですけども。

1973年から、つまり、ちょうど40年前から原発に対する反対の声を上げて、地元の原発反対運動の中心として活躍されてきた方でもあります。
で、安斎育郎(あんざいいくろう)、私も、その頃から早川さんと協力関係を結んで今日に至っているということで、最初に、早川さんから、その70年代初頭の原発計画が地元どんな形で出てきて、これは捨ておけない問題だと、いうふうに思ったのは、どうしてか、その辺から、ちょっとてみじかにご紹介いただけますか。

早川篤雄さん:
東京電力福島第一原発の1号機が、営業運転を開始するのが、71年の3月26日なんです。
そのちょうど半年ぐらい前になりますか、つまりこの70年の、秋ごろかな?
燃料装荷が終わって、初臨界になってその後、発電に成功すると。
そこんところ、その時点からすでに大小のトラブルが起こるんですよ。
でも、原子力発電なんていうのは、全然どんなことなのかさっぱり分かりません。

で、なんで原発に、じゃぁ関心もったのかっていう、その今、申しました第一原発1号機が1971年の3月26日に営業運転を開始したその日の夜に隣町、広野町のここにありますけどもね、その同じ日に広野町に東京電力の火力発電所を誘致する話が突如、夜の広野町の町議会で決議されたんですよ。
それが、その次の日、ぱぁーっと広がったわけです。
そうすると、原発には、あまりその関心ていうか、興味っていうかそんなに不安も持っていなかった。ただ、今言ったように、事故があって、やっぱりいろいろあるんだな、ていうこと。

火発(火力発電)ときたらね、これはあの1970年代ていうのは、四大公害の裁判が盛んに騒がれていて、71年、72年、73年で四大公害裁判が、たいへんな騒ぎを起こしておって、四日市ぜんそくとかね、あんなのがきたら大変だということになって、人々は、その私も同じように、原発(原子力発電)よりも火発(火力発電)の公害の方が、心配になったということですね。
それではということで、まあそういうことが町中の話題になりましたから、原発と、火発と、ついでに、同じ講師を呼んで、勉強会をしようではないかと、これらがキッカケとなるというわけですね。

安斎育郎:原子力研究所から当時は?誰かを呼んだんですね。

早川篤雄さん:
それで結局、急遽72年に72年、年明けて、2月。
年が明けてから、2月11日に72年2月11日に、とにかく心配な人たちが集まって、公害から楢葉町を守る町民の会というのが、みんな相談の結果できあがって、じゃあ、何する?と。
それはやっぱり、火力発電所の公害について、それから、正直言って、ついでに原発(原子力発電)の勉強もしようはないかということで、学習会をしたと。
その時に、おいでになったのが、火発の方では天谷和夫(あまやかずお)という、その当時は大変有名な・・・

安斎育郎:
そうですね。大気汚染の測定で全国的に有名でした。

早川篤雄さん:
本当に。
その先生(天谷和夫)と、それから、原子力については、誰をお呼びしようかと、やっぱりそれは、原研(原子力研究所)だろうと言うことで、原研の、福田正明(ふくだまさあき)という先生においで頂くことになって、4月の23日だったかな?楢葉町の中学校の体育館を借りてお2人の先生に講演してただいたと。
そのときのお二人の先生、片っ方は大気汚染、亜硫酸ガスの、片方は原発の専門の先生です。
お二人の講演での結論が一致したんですね。現在の科学技術で公害をなくすことはできます、と。
しかし住民に、背を向ける行政、それから、お金がかかりすぎるという企業。
お金がかかりすぎるからいろいろなことができないという、住民の要求をきけないという企業のもとでは、公害は必ず起こると。
なるほど、と。
で、その公害を防ぐのには住民運動以外にはありません、というのが結論だった。
それで、その時に、ええ、亜硫酸ガスの方も原料によって亜硫酸ガスの量が全然違うだいうことも、初め、そんなことも、はぁーと、そんなもんかなと思った。
それから、原発の方でも、しきい値なんてコトバを、えー?しきい値って、どんなこと?どんな字書くんですか?どういう意味ですか?って。
あぁ、なるほどって。
ということで、そんなこと、こんなことを、勉強したらば、ああ、これは原発の方こそ将来、大変な問題になるということをだんだんみんな、気づいた。

で、そこで、じゃ、どうする?と。
もう少し勉強をしようじゃないかということになっていくわけですが、じゃあ今度は、次になにをする?と、公聴会の開催を要求するしかない!ということになって、今、先生が言ったように全国初の(原発)公聴会に結びつくわけですよね。

安斎育郎:
1973年というと、国の方では、田中角栄内閣総理大臣が現れて、しかも秋には第4次中東戦争が起こって、石油ショックですよね。そして、もう原発以外にはない、とつまり石油に頼っていると中東で紛争が起こると輸入できなくなるおそれがあるから、石油・火力(発電)だけに頼っていられない、ていうんで、国そのものが、原発へ舵をきっていった時期で、急速に全国的に原発計画が出てきたその時期に、この浜通りにも、そういう話が、次々と出てきたということですよね。

最初、火発(火力発電)から問題意識が出てきて、ついでに学んだはずの原発が、どうも将来は重大な問題になりそうだということで住民運動が始まった、と。
そして、1973年の結局9月18日・19日と福島市で住民参加型の初めての公聴会が開かれて
地元民も意見陳述をしろって言うんだけど、この公聴会が、まぁ、一種の茶番劇でしたよね。
しゃべる人は事前に申し込みなさいって言うんだけども、その推進派が圧倒的多数の申し込み人を用意して、当日、聞きたい人も申し込みなさいっていうんで、推進側が圧倒的多数の傍聴人を申し込んで、だから圧倒的多数の推進派の前で、圧倒的多数の推進派が演説する原発推進演説会みたいな様子だったんだけども。
しかし、その時に私も関わるようになったのは地元民に原発問題でしゃべれなんてったって最先端の科学技術について地元住民に指摘しろったって、無理だから住民が推薦する科学者にも喋る機会を与えろ、ということをしていただいてそれで私も、かなり本格的に関わるようになったという、そうですよね。

早川篤雄さん:
住民推薦ということでね。その公聴会にとにかく、今、先生がおっしゃるような形で我々の要求したかたちの内容の公聴会ではなかったけれども、とにかく、我々が署名を集めてせっかく実現したものだから、将来のことを考えると言うべきことを言っておくべきだということで参加しようと一方で、その民主化を要求しながらということで、意見が一致した。

ところがそんなこと言ったって、さて、ただ1回の講演会で勉強した
(我々が)原発をどうやって・・・ただ不安だっていうだけなんだけれども、これは、もうダメだということで、そこで先ほど安斎先生が言うように、日本科学者会議の方に、福島大学の方からつながりがあったんもんですから、専門的に、やっぱり、まずは学習会を開くということ。

本格的に学習会を、安斎先生を初め、原研から中島徳之助(なかじまとくのすけ)先生、日本科学者会議の原発の専門の先生方、次々に福島においで頂いて、その中でも、安斎先生は、もう何回も泊まりがけで、今では第二原発の、富岡町ですか。
ここの旅館に、先生に泊まりがけでおいでになって、我々に講演してれたと。
まぁ、先生の話、メモとりながら聞くったってもできないですよ。
早口でボンボンボン出て来るしね。
それでも、耳学問でも、にわか学問でも、原発には、こういう問題があるんだなんてことを
解る。

今度は、安斎先生はじめ中島先生の講義を受けたり、さあそれ原稿に書けっていったって、
できないんわけなんだよね。じゃあ、こんなことだ、あんなことだと、それを専門的に、安斎先生が
まとめてくれて、明日(佛教大学での講演会で)も紹介するつもりなんですが最終的には、60人が、
陳述希望を出して、まぁ、60人になったんですよね。

60人が、陳述希望したけれども、だけれどもその中で我々は(公聴会開催側から)15人しか認められなかった、60人のうちで、15人だけでは、これでは、原発問題の全体を追求できない。
そこが先生の知恵なんだね、60人。60人の陳述で我々の一つの意見だということで、(校長会に)受け取れと。

結局はそれによって、その当時考えられた原発問題について、全部突きつけたと、こういうことです。

安斎育郎:
当時、60人の証言という本をまとめて、

早川篤雄さん:
安斎先生がまとめた。

安斎育郎:
それは、かなりその後の日本の原発の反対運動の中でも役割を果たしたものだと思いますけども、まあ、そういう点で、住民と科学者の共同が、73年以降、結局は、裁判ということになるんですが、それにつながるような協力関係を築いていった。
ということなんですよね。

みなさんは、その頃のことで、何か聞きたいことがあれば、自由にきいてみてください。

谷川さん:
今、思えばなんですけど、その取引として、福島の浜通りが選ばれたんだろうなと思うんですね。原発であれ、火発であれ。経済状況とか、何かあったんじゃないかと思うんです。
どうして?

早川さんの故郷が・・・

早川篤雄:
これはもう、全然後になってから、わかるんですが。なんでそんな原発なんかが、我々のとこに来るんだということで、ずっと後になってから少しずつわかるようになる。
そうすると、東京電力が原発をやるっていう風に決めるのはね、
1955年の8月の・・・1955年に東京電力社長室に原子力発電科っていうのものを設けるんですよ。
で、そのときの原子力発電科を設けたときの副社長だった人間が、福島県柳川市出身の
木川田一隆(きかわだかずたか)という人物。
で、その原子力発電科を設けた、その原発をどこに立地するか?
そしたら、福島県出身の副社長いるわけで、ストレートに福島だということに、なるんじゃないですか。
ですから1960年ぐらいに東京電力の原発の立地というのが、福島だと決める。
という決め方をする。

安斎育郎:
1955年というと、この国が原子力を始めた極めて初期の頃で、その前の54年の
3月1日にビキニ被災事件というのがあってそのわずか数日後に、中曽根康弘(なかそねやすひろ)っていう当時、改進党(かいしんとう)の代議士だった人物が中心となって国会で原子炉築造予算
ていうのを、2億3500万円と言うのを通して、ウラン235から数字をとったということで有名な
予算をとって、正力松太郎という、財界筋のイニシアチブを取った人が日本に原子力を、”平和のための原子力”をどんどん展開するという方針をとった。
その翌年ぐらいには、すでに、電力会社が原発へ展望していた。
東京電力という会社ができたのは1951年で、日本にはそれまで電力会社は
一つだったのを、マッカーサー司令という、日本を占領した、米軍の司令部によって、9つに地域分されて東京電力という電力会社ができたんだけども、それがスタートしてから、わずか数年で将来の
電力生産の担い手としてアメリカ型の原発を導入するってことが、たまたま福島県出身の
人物が重要な役割を担っている東京電力によって、ここ(福島)が候補に挙げられたという。
東京電力であるにもかかわらず、福島県という、東北の地に原発が置かれるということになっていったんですね。

早川篤雄さん:
福島県に原発を立地するということが決まった時点で、この、木川田一隆は東京電力社長になるわけだ。
第一原発、第二原発が、動き出す頃まで、この木川田が社長を務めるんだよね。

安斎育郎:
国家が原子力に舵をきり、電力会社もそれと歩調を合わせて、非常に、ある意味で先を見て地域を選び、できるだけ反対運動も少ないそういう地域に原発立地を展望していく中で
早川さんたちが、学習の結果、住民運動のないところには、必ず公害が起こりうるという、火発であれ、原発であれ、そういうことに目覚めて地域の反原発の運動を組織していったと、というのが、70年代のそもそもだったということなんですけども、ご質問ありますか?

藤田さん:
はい。
福島の第一原発が、実際に稼働し始めたのは何年でしたか?

早川篤雄さん:
1973年1月の・・・いや、1973年の3月26日が福島第一原発の営業運転開始ですね。

藤田さん:
ということは、原発公聴会が開かれたのは、その福島第一原発が稼働した後ですね?

早川篤雄さん:
私どもが要求した公聴会は、第一原発ではなくて、第二原発の方の公聴会です。
第二原発の発表されたのは、昭和43年なんです。

安斎育郎:
1968年ですね。

早川篤雄さん:
発表されたんですね。
その、発表されたんだけどもその時点では、冒頭いいましたけども、その危険なものとは、わからなかった。
全然わからなかったんですよ。

安斎育郎:
この国は、73年9月に初めての住民参加型の公聴会が開かれるまでは、そういう公聴会もないままに、次々と原発立地を進めていた。公聴会を開かせることになったのは早川さんたちが、それを問題として取り上げて、国に要求した結果として。
また極めて不十分な、茶番劇みたいな公聴会ではあったけれども、とにかくそういうことを制度化する一つの足がかりになったということは確かですね。

藤田さん:
しかも、それが火力発電の公害反対をキッカケに始まったということが、なかなか面白い、というか・・・

早川篤雄:
それだけ、私ども原発については、どんなもんだか?ということが全然わかってなかった。

僕自身の体験から言えば、高校を出て、大学に通う頃には、東海村の・・・常磐線ですから、あそこに、その・・・
素晴らしい原子力の火が灯るんだ、灯っているんだと、東海村が、やがては大きな都市に発展するんだと言われて、そうかなって思ってたんですが、全然疑問に思ってなかったんです。
我々もその、広島とか、長崎とかそういう原爆の問題とかは、わかってはいたんですけども、もちろん、どう考えたって発電と、原爆ではですね、違うわけですからね。

そもそもは、ね。
あとでよく考えたら、でも、根っこは一つなんだと、教えてもらったら、わかったということなんです。

安斎育郎:
1960年代から70年代この国は高度経済成長といって、生産を拡大してい、ドンドン電力が必要になったし、それから市民生活も三種の神器、なんていうんで電力を必要とするようになっていって、その中で、しかし火力発電所でそれをまかなえるかと思って、三重県四日市を見ると大気汚染公害ということになっている。という頃合いを見計らってアメリカが大気汚染させない原子力発電というのを、売り込んで来て、当時日本の貿易黒字で儲けたカネで、当期赤字だったアメリカから大量に濃縮ウランを買って、35年先まで見すえて原発政策を展開するという、そういう状況だったんですね。

その中で、具体的に福島の、ここで早川さんたちが、そういう火力発電から、入り口として入ったけども、国家的なエネルギー政策、原発っていうのを、いずれ裁判にまでもちこむんだけども、そういう形で注目を浴びるような形に、作っていた。そういう先駆的な役割を果たしたことは確かだったと思うので・・・
前段の話は、まずここでいったん切りまして、もうひとつの早川さんには、あの事故が起こったときにどういう行動を取られて、今どうされていて、何が問題だと思ってるか?その辺の話をしていただこうと思います。

2013年12月4日収録
ASAP 放射能から命を守るシリーズ 第17回-1 「早川篤雄さん、福島反原発住民運動」(前半)

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