「平和友の会会報」連載「世相裏表」2017年4月号 落語は楽しいが、政権は醜い
安斎育郎
2017年3月26日、私は「ヒバクシャ・ピース・マスク・プロジェクト」の講演会のために広島平和記念資料館の会議室にいた。韓国のアーチストであるキム・ミョンヒがパートナーのロバ-ト・コワルチェクとともに、約20年前にスタートさせた「ピース・マスク・プロジェクト」は、生きた人間の顔を石膏でかたどり、それをもとに和紙でマスクを作るものだが、それは、国籍も肌の色も肩書もなにもかもを超えた「ヒト」としての普遍性を象徴する生の証しでもある。「私は生きている、私は生きたい」ということを美しい和紙芸術を通じてやわらかに訴えかける平和の営みだ。ミョンヒらはこの1年、被爆者のマスクを100人分製作して展示しつつ、核兵器の非人道性、非人間性を人々と共に考える活動を続け、その集大成として3月26日に被爆の象徴である広島の地で集会を開いた。その日は沖縄戦開戦の記念日であり、その翌日の3月27日からは国連本部で核兵器禁止条約をめざす「交渉会議」が始まるというタイミングだった。私はそこで基調的な講演(といっても約20分だったが)を行ない、第2次世界大戦からまさに2017年3月26日までの歴史を跡づけた。そして、「ヒバクシャ・ピース・マスク・プロジェクト」の意義を人類史的に位置づけ、国連の会議の歴史的な意義について再確認した。
驚くべきことに、この会議に積極的に参加すると言っていた日本は、結局、「核保有国が参加しないこのような会議に参加することは、かえって核保有国との溝を深めることになって逆効果でさえあり得る」という理由で参加しないことを決めた。それは広島1区選出の岸田外務大臣の口から発表され、各方面から顰蹙をかい、落胆を招いた。日本の有権者もバカにされたものだ。政権の図々しさ、破廉恥さが恐ろしい。主権者たる国民も「春眠暁を覚えず」では困るのだ、とそう強く思う。
故・古今亭志ん生の落語『火焔太鼓』をテープで楽しんでいたら、いくつか思い当たる節があった。この古典落語はかなり有名だから、ご存じの方も多かろうと思う。古道具屋が仕入れてきた古い太鼓のホコリを払ったら「ドンドコドン」と音がし、それを通りがかりの大名が聞いて気に入り、屋敷に届けさせて三百両の高値で買い上げるという話を、かかあ天下の古道具屋夫婦のやり取りを軸に面白おかしく展開する物語だ。落ちは、「これからは何でも音の出るものに限るねえ」「そうだ。俺は今度半鐘を仕入れてこようと思ってんだ」「あんた半鐘はおよしよ、オジャンになるから」というものだが、噺の導入部で江戸時代の見世物小屋の呼び込みが紹介される。
「さあ、人間と生まれたなら一度は見ておくもんだ。『命の親』だよ。さあ、見て行かねえか」「えっ、『命の親』?どれだい、『命の親』ってえのは、えっ?」「そこだよ、ほら、目の前にあるだろ」って言われて見ると、どんぶりにご飯が山盛りになっているというのだ。「これは理屈では文句は言えませんな。何しろ『命の親』なんだから」。これは、当たり前のことを(ウソをつかずに)仰々しく表現して誤解を誘導し、思い込みを持たせて騙そうという作戦の呼び込みだ。
「艱難辛苦の末に山で生捕ったる『六尺の大いたち』だよ」「えっ、『六尺の大いたち』?そいつぁすげえな。えっ、どれだい『六尺の大いたち』ってのは?どこにいるんだい?」「ほら、目の前だよ」『えっ、どこ?』「ほら目の前を見てごらんよ。板があるだろ、板が」「ふん」「六尺だよ、その板は。真ん中辺に赤いもんがあるだろ。それは血だよ。六尺の大板血」。「山でとれたって言うじゃねえか」「そうだよ、そりゃあ川じゃとれないよ」。
この最後の質疑が面白い。「山でとれたって言うではないか?」という質問に「川ではとれない」と答える。「Aではないか?」という質問に対して、「Aである」とか、「Aでない」とか答えずに、「Bではない」と答える。
ニューヨークの街を砂を入れたバケツを持って歩きながら、ときどきその砂を道路に撒いている男がいる。「何してんですか、道路に砂なんか撒いて?」と聞かれた男、「いやあ、ワニを追っ払っているんですよ」と答える。「ニューヨークの真ん中にワニなんかいる訳ないでしょう」と突っ込まれると、「ほら、効き目があるでしょう!」と答える。その意味は、「本当はニューヨークの真ん中にもワニがいるんだが、俺が砂を巻いているから出て来ないだけだ」と言いたいのだ。つまり、これは、実際には存在しないものを「存在する」ことにして、それが「存在しない」かのように見えるのは「俺がこれこれをしているためだ」と自分の手柄にする方法だ。北朝鮮が日本にミサイルを撃ち込む危険は絶えずあるんだが、それが撃ちこまれないのはアメリカの核兵器が日本を守ってくれているおかげだ、というのも同じ論理だ。
この間、国会では安倍総理を始め「悪魔の証明」ということばを時々使っていました。
安倍首相が昭恵夫人を通じて森友学園に100万円を寄付したのではないかという問題に対して、全幅の信頼を置きかねる籠池氏の証言とはいえ、貰った側としての授受関係に関する事細かな証言があり、付随して郵便振り込みの証拠書類も出てきている中で、100万円の授受は限りなく黒っぽいのだが、「寄付した」とされる側は「出したことはない」とあくまでも突っぱね続け、「ないと言っている以上、ないのだ」「なかったことを確かになかったことだと証明することは悪魔の証明に属する問題で、出来ないのだ。なかったのだ」という訳だ。本来、「悪魔の証明」とは、「存在しない」と主張していることが「実際に存在しない」ことを証明することの困難性を表す概念だが、その逆に、「存在しないと主張されているものが実は存在する」ことを証明するには、たった一つでいいから例を挙げればいい。森友学園100万円寄付事件では、その種の実例として寄付の授受の場面が一方の当事者によって事細かに証言され、傍証として郵便振替用紙の記録が提出されたにもかかわらず、他方の当事者が真っ向からそれを否定しているという構図だが、「寄付はなかった」という主張を具体的事実によって否定された訳だから、安倍首相側は「寄付はあった」とする証言の虚構性を徹底的に暴かなければならないのだが、それが出来ないままに「とにかくわれわれの側にはなかった。なかったものはなかったのだからそれ以上証明のしようもない。悪魔の証明に属する問題だ」と言って逃げ込んだ形になっている。
とにかく、最近の国会論戦を見ていると、防衛大臣が南スーダンでの「戦闘」はあったが「法的な意味での戦闘」ではなかったと屁理屈をこねるとか、「核兵器禁止条約交渉に積極的に取り組む」と言っていた外務大臣の決意表明が「核兵器国が不参加の会議に参加することはかえって亀裂を深めるから参加しないことにした」と暗転するとか、「原発自主避難者は自己責任だ」と災害復興大臣が言った矢先に「まずかったから撤回する」とか、不誠実極まりなく、一貫性も見識も何もかなぐり捨てた恥ずべき姿だ。こんなズルぬけの政権をだらだらと許しておくほど主権者もタガが緩んでいるのか。「タガが緩んだ状態」は「ゆるふん」とも呼ばれるが、「締まりがなく、緊張を欠くこと」を意味する。それはまさに現政権の実態を記述するのにこそふさわしい言葉だが、そのときそれに合わせて主権者の側も「締まりがなく、緊張を欠いて」いては困るというものだ。憲法施行から70年目の年、気を引き締めて醜い政権を退路に導きたいと思うのだが。