◆平和友の会会報連載「世相裏表」2019年9月号原稿
韓国からのゲスト
安斎育郎
- 詩人ユン・ドンジュ記念碑の掃除
8月13日、長男一家が宇治のわが家を訪れました。飛んで火に入る夏の虫、家から車で10分ほどの宇治川のほとりにある「詩人尹東柱 記憶と和解の碑」の清掃に連れ出しました。長男は税理士で、「平和のための博物館国際ネットワーク」の監査、妻は高校の英語教師、その長男は数学好きの小学6年生です。
記念碑建立に協力した人々が時々このように清掃に訪れ、韓国から日本からいつ訪問者があっても気持ちよく見て貰えるように心がけています。
残念ながら、日韓関係の悪化の中で韓国からの来訪者も減っていますが、こういう時だからこそ、市民レベルで出来る日韓友好のためのささやかな日常行動が大事なようにも感じます。
実はこの記念碑の土地は借地なのですが、隣接する宇治市が管理する土地から雨で土が記念碑側に流出したりすることが懸案になっていました。このたび、民団(在日本大韓民国民団=日本に定住する朝鮮半島ルーツの人々の団体)の関係者が写真のように記念碑環境を整えてくれることになり、日韓の民間の共同が続いています。
- 四・三事件研究者イム・アエダック教授の来館
8月24日、国際平和ミュージアムにウエブスター大学(米国)のロイ・タマシロ名誉教授が訪れ、私は山根和代さんや君島東彦さんともども来年の第10回国際平和博物館会議について相談しました。
そのときロイさんとともに、韓国の済州(チェジュ)島のイム・アエダック教授が平和ミュージアムを訪れました。イムさんのご両親は「済州島四・三事件」の犠牲者で、イムさん自身は四・三事件の著名な研究者です。犠牲者の関係者や被害者に直接インタビューした結果に基づいて、国内外に四・三事件の意味を訴え、国際社会でも高く評価されています。
四・三事件というのは、1948年4月に済州で起こった民衆の武装蜂起からその武力鎮圧にいたる一連の事件で、3万人をこえる島民が犠牲になった韓国史上の大弾圧事件です。
1945年8月の日本の敗北後、南朝鮮はアメリカの軍政下に置かれましたが、米軍政部と左派勢力との対立が次第に激化していきました。米軍政部が済州島に投入した警察軍と、朝鮮北部を追われた「西北青年会」という右翼武装勢力が島民に暴力を加える中で、「1948年5月10日に南朝鮮で単独選挙を行なう」ことが強行決定され、1947年4月、これに反対する島民が武装蜂起しました。軍政当局は、警察軍に加え、朝鮮国防警備隊の連隊を投入して武力鎮圧しようとしましたが、島民側も激しく抵抗し、結果として「1948年5月単独選挙」は阻止されました。
8月に成立した李承晩(イ・スンマン)政権は、11月から徹底した済州島の焦土化作戦を展開しましたが、この作戦は軍・警察・右翼団体による島民大虐殺に発展し、3万人を超える島民が犠牲となりました。鎮圧作戦は1954年9月まで続き、関係者やその親族が処刑・虐殺さえました。それどころか、事件に関係したとみなされたものには「連座制」が適用されてすべての公職から排除され、韓国社会では四・三事件に触れること自身が「タブー」になりました。
真相究明が始まったのは1980年代後半の韓国民主化プロセス以降で、ようやく2000年に至って「真相究明と犠牲者の名誉回復に関する特別法」が制定されました。2006年、犠牲者慰霊祭に出席した盧武鉉(ノムヒョン)大統領は、韓国大統領として正式に謝罪しました。だから、韓国民にとってはチェジュ四・三事件は「古くて新しい、なお現在進行形の問題」でもあるのです。
両親が四・三事件の犠牲者であるイム教授は、国家による暴力には特別敏感なのかもしれません。「ムッちゃんの平和像」が外見上「慰安婦少女像」に似ていたことも無縁ではなかったと思いますが、イム教授の驚きは平和ミュージアムのロビーを見たときから始まりました。私はロイさんとの会議があったので、その前の短時間、ミュージアムの設立経過や展示原理について説明し、あとは自由に見て頂きました。
イム教授は1時間半ほどミュージアムを参観した後、INMPの会議をしている部屋を訪れ、参観の感想を述べました。大変感動されたようですが、「どうして京都が原爆投下の目標になったのですか?」と質問されました。私は、当時、アメリカが原爆投下目標を選ぶに際してとった基準について説明し、京都は広島とともに「AA目標」(最適の目標)と位置づけられていたことを説明しました。そして、100万人近い人口をもち、1000を超える神社仏閣のある木造建築文化の街であり、加えて山に囲まれた盆地であることを考えると、京都に広島型原爆が投下されていたら50万人近い犠牲がもたらされたと推定されることも紹介しました。
実際には、広島への原爆投下の13日前の7月24日、京都は原爆投下目標から外され、代わって長崎市が加えられました。その日のアメリカのヘンリー・スチムソン陸軍長官の日記には、「もし京都が除外されなければ、このような無茶な行為によって生じる残酷な事態のために、日本人との和解が長期にわたって不可能となり、むしろロシアに接近させることになるだろうし、ロシアが満州に攻め込んだ場合に、日本がアメリカと同調するのを妨げるだろう、と私は指摘した」と書かれており、アメリカは戦後の国際社会での政治的優位性を保つために、京都への原爆投下を慎重に回避したのです。
- 民間交流こそ相互理解への道
INMPの会議終了後、私たちはロイさん、イム教授も交えて夕食懇親会を開きました。
左から、ロイ・タマシロ、イム・アエダック、君島東彦、藤田明史、山根和代(夕食懇親会にて、撮影:安斎)
現在の日韓の対立模様などどこ吹く風、出席者がそれぞれの問題意識から途切れることのない対話を続け、有意義で楽しい懇親会になりました。
私は本稿の前半で取り上げた「詩人尹東柱記憶と和解の碑」の建立経過についても説明し、日本でも市民レベルでこうした運動が進んでいることを紹介しました。
また、世界には約300の平和博物館があり、日本には70ぐらいの平和博物館がありますが、それらの平和博物館の連携組織が「平和のための博物館国際ネットワーク」(INMP)であり、現在その事務局が平和ミュージアム内に置かれ、私たち日本の平和博物館関係者が運営に当たっていることも紹介しました。韓国にも、独立記念館、安重根(アンジュングン)記念館、西大門(ソデムン)刑務所歴史館、白凡(ペクポム)記念館、植民地駅史博物館、ノグンリ平和記念館、5.18民主化運動記録館、全南(チョナン)大学5・18研究所付属展示室、朴鍾哲(パクジョンチョル)記念館、李韓烈(イハニョル)記念館、四・三平和記念館など、少なからぬ平和博物館関連施設があります。私は、日本には平和博物館相互の協議体として「日本平和博物館会議」や「平和のための博物館市民ネットワーク」があるが、韓国でも平和博物館の連携組織を立ち上げる可能性はないかどうかについても提起しました。
翌日(8月25日)、広島に向かったロイさんからイムさんの平和ミュージアムでの印象についてメールが来ました。「イム博士はまたINMPのリーダーたちにも強い印象を受けたようで、とりわけ安斎教授の何十年にも渡る平和のイニシャチブに感銘を受けたようでした。彼女は第10回国際平和博物館会議にも必ずや(シンポジウムなどの)提案をするでしょうし、世界中の知人たちにもそう働きかけるでしょう。彼女はINMP会員になる意向です」。
「話せばわかる」という言葉がありますが、政財界や一部のマスコミや「愛国者」たちが日韓の対立を煽り立てようと、市民レベルでは理性的に対話を続け、相互理解を進めることが、このような時期であればこそとても大切だと思います。