平和友の会会報連載「世相裏表」2018年6月号原稿

◇「世相裏表」2018年6月号原稿

日大アメフト部事件に感じること

安斎育郎

  • はじめに

 この時期の大きな関心事は米朝会談に相違ないが、この原稿を書いている6月6日時点では、まだ実らぬ恋の行方をあれこれ言うような落ち着かない気分があって、この問題を取り上げるのは次号以降にしようと思う。この夏の原水爆禁止世界大会に向けてかもがわ出版から安斎育郎・林田光弘・木村朗『核兵器禁止条約を使いこなす』を出版する計画だが、そこには米朝会談が示唆することについて論じる予定だ。

 そこで今回は「日大アメフト部事件」について感じていることを述べたいと思う。

 

  • 大学での抑圧体験

 馬齢を重ねてくると、と書いたとたんに、これは馬に失礼な言い方だなと感じて戸惑った。人間は農耕や運搬や交通などの面で馬に大変世話になっているはずなのに、馬齢とか馬鹿とか、失礼な言葉を使うものだと感じる。私自身は「そんなバカなことはあるまい」とか「バカバカしい」とかいう表現は会話の勢いでふいに使うことはありそうだが、その場合は頭の中では「バカ」とカタカナで書いているように思う。

「馬鹿」の語源には諸説あるが、『史記』の「指鹿為馬」(しかをさしてうまとなす)の話は妙に現代日本の政権事情に通じていて興味深い。の2代皇帝・胡亥(こがい)の時代に権力を奮った宦官趙高(ちょうこう)が謀反を企みたが、廷臣の中で誰が自分の味方で誰がを判別するために「踏み絵」というか、「リトマス試験紙」というか、ある方法を試みた。趙高は皇帝に献呈するために宮中に一頭の鹿を曳いてこさせ、「珍しい馬が手に入りました」と言った。皇帝は「これは鹿ではないのか」と尋ねたが、趙高はその場に居合わせた廷臣たちに、「これは馬に相違あるまい?」と尋ねた、というか同意を求めた。趙高を恐れている者は「馬」と言い、彼を恐れない気骨のある者は「鹿」と答えたが、趙高はこれによって自分に従順に従う者と反逆する恐れのある者を区別し、後で「鹿」と答えた者をすべて殺したという。つまり、自分の権勢を恐れて従順に従う者で自陣を固め、抗う恐れのある者を抹殺したのだ。権力闘争では国家から大学経営に至るまでこの種の話はつきものだが、今回の日大アメフト部の内田正人監督もそうした類の人物だったようだ。

ところで、私が「馬齢を重ねてくると」と書き出したのはそもそも何を論じるためだったのかというと、「馬齢を重ねてくると、その間、意に沿わないいろいろな体験をするものだ。1970年代の私の東大医学部助手時代も、まさにそんな時代だった」と話を切り出すつもりだったのだ。実は、今度の日大アメフト部事件を見ていて、「あゝ、あの頃の東大医学部での体験と同じだなあ」と感じ、これは「馬鹿の語源そのものだなあ」と痛感していた。ついでながら言うと、「馬齢」という場合の「馬」は言うまでもなくへりくだった表現だが、「犬馬」という場合と同様、「人に仕えるもの」とか「身分の卑しいもの」という意味合いが込められており、自らのことについて述べる場合の謙譲表現(謙称)として用いられるということのようだ。

 

  • コーチの語源と馬の関係

3月に行った「安斎育郎先生と行く平和ツアーin広島」のミニ講演は「核軍備競争と日本の原子力開発」というテーマだったが、私の講演資料の最後には次のような趣旨が述べられていた。「アメリカの対日戦略の延長線上で国家が電力資本と結合して原子力ムラの骨格が形成され、実証性を欠いた原発技術を権威づけるために『異を唱えぬ専門家』が利用され、電源開発促進税法による特別交付金をエサに地方自治体が誘致に駆り立てられ、『豊かな地域づくり』を標榜して住民たちが推進派として組織された。それによって『原発推進国家総動員翼賛体制』と言うべき巨大な『原子力ムラ』が築かれた一方、批判者を徹底的に抑圧して『ムラ』から放逐し、その言い分を一顧だにしない─これが、この国の原発政策を『緊張感を欠いた独善的慢心』に陥れ、破局に向かって走らせた背景にあったのではないか」。

毎日のように日大アメフト部事件が報じられる中で、こうした抑圧体制の弊害は何も大学スポーツの世界だけではなく、戦争や核開発を含む国家的問題にも通じるものであり、抑圧主体は時にアドルフ・ヒトラーや東條英機やヨシフ・スターリンのような特定の政治家を中心とするものであったり、時には治安維持法のような構造的暴力装置であったりするのだろう。

私たちは、異を唱えると命さえも奪われかねない状況を招く前に、一つ一つの抑圧の芽を摘み取らなければならないだろう。その意味では、日大アメフト部事件を対岸の火事と見るのではなく、私たち自身の日々の生き方の中に潜む問題を見る主体的な目で見なければなるまいと思う。

日大アメフト部事件では、内田正人監督に従って「鹿を馬という係」を演じたコーチ陣も大きな批判にさらされた。内田氏とコーチ陣の関係は「忖度」などという上品はモノではなく、「提灯持ち」とか「腰巾着」とでも呼ぶべきものだった。

 コーチ(coach)の語源をこのエッセイのキーワードである「馬」との関連でいえば、まさに「四輪馬車」に他ならない。イギリスでは今でも大型バスは“coach”と呼ばれる。意外に思われるかもしれないが、四輪馬車が最初に作られたのはハンガリーのコチで、農閑期の収入源だったらしい。コチ製の四輪馬車“kocsi”は路面からの衝撃を吸収して車体を安定させるための「サスペンション」装置が付いていたことからヨーロッパで人気を博し、馬車は“coach”(コーチ)と呼ばれるようになった。そして、coachという言葉は単に四輪馬車を意味する名詞としてだけではなく、「目的地まで四輪馬車で送り届ける」という意味の動詞としても使われるようになった。まさにスポーツのコーチはその延長線上にあり、「目的を達するために導く」という意味として誕生したので、指導者は元来「学習者を送り届ける四輪馬車」に他ならなかった。その「コーチ」が「つべこべ言わずにオレの馬車に乗れ!」と学習者に鞭をあてる。主客転倒も甚だしいが、「大学日本一」といった共通の目標をもっている閉鎖集団ではこうした構図が成立しやすいようにも思う。

 馬ついでにもう一つのことわざを引用すれば、「泣いて馬謖を斬る」という言葉がある。三国時代(紀元220年~280年)のの武将・馬謖(ばしょく)が「街亭の戦い」(現在の甘粛省天水市泰安県)で諸葛孔明の指示を守らずに大敗、諸葛孔明は愛弟子である馬謖を処刑に踏み切った。「馬謖ほどの有能な武将をなぜ処刑したのか」と問われた諸葛孔明は「軍律の順守が最優先」と涙を流したという─これが「泣いて馬謖を斬る」の背後にある物語だ。今では、「たとえ愛する者であっても規律違反者は厳しく処分すべきだ」という譬えとして使われる。しかし、昨今の総理大臣、総理夫人、財務大臣などを見ていると、少なくとも日本では吏道を律する俚諺としてはこの言葉は死語と化しているらしいことを確信せざるを得ない。

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