『美味しんぼ』鼻血問題コメント
安斎育郎 立命館大学名誉教授(放射線防護学)
鼻血や倦怠感については、福島の方でそうした症状を心配しているという方がいるという話は伝わってきています。そして、それが放射線によるものかの議論がある。ただ、原発事故前の鼻血や倦怠感に関する統計データと今を比べなければ、増えているのかどうかは何とも言えません。具体的な、そういう比較データは承知していない。
こうした症状は『後付けバイアス』によって出ることが知られています。これは心理学用語で、鼻血が出た、疲れたという症状が出た場合、福島で放射線を浴びたからではないかと考える。今、こんなに疲れているのは、きっと福島に行ったせいだろう、などと考えることはよくあることです。そういうふうに思う方が多く現れることはあり得ると思います。が、これは原発事故によるものだと断じるようなものではないでしょう。
放射線の影響が、人々にどういう影響を与えるのか。それは、4つのカテゴリーに分けて考えるべきでしょう。①身体的影響、②遺伝的影響、③心理的影響、④社会的影響です。
このうち、社会的影響というのは、福島に対する差別や偏見、風評被害もそうですし、避難していた人が、これまで掛かっていたお医者さんに通えなくなったり、衛生面の変化や集団生活など環境の変化によっておこるストレスや不眠、食欲不振に陥ったりして死期を早めたりするのもそう。最近では、福島県では原発関連死が震災による直接の死者を越えていますが、これもこの社会的影響によるものです。
心理的影響については、多くの方々は放射線は浴びないに越したことがないということを知っているので、何かあると福島のせいではないかと考えてしまう。放射線量が通常より高いと知った際に、そういう感じ方をする。さきほど触れた、後付けバイアスもそうです。鼻血が出ると放射線のせいではないかと考える。何かが起きたら、放射線と関連付ける。それがさらに進むと、福島県で採れた食材は、汚染の実態と関係なく「食べない方がいい」と感じる。福島県出身の彼女と付き合うなと家族が反対するというのも、この心理的影響に該当します。
が、今回の『美味しんぼ』の件を検証する場合には、①②に該当するか否かという問題になります。これは放射線医学とか放射線影響学といった科学のジャンルによるものです。
結論的に言えば、もちろん個人差もありますが、1シーベルトを超えなければ倦怠感は現れないと考えていいでしょう。毎時ではなく、一度に1シーベルトを浴びた場合です。目安としての、1シーベルトです。1シーベルトは、1000ミリシーベルトであり、100万マイクロシーベルトです。この線量を浴びた人が倦怠感を感じた場合は、放射線との因果関係を疑って構いません。もちろん、倦怠感は従事した労働の強度にも依存しますし、人によって放射線の感受性は違います。もっと低いレベルで倦怠感や吐き気が出る人もいれば、もっと高くないと症状が現れない人もいる。数百ミリシーベルトから1シーベルトの範囲で起こると考えればいいでしょう。目安としての1シーベルトと言えます。
今回の『美味しんぼ』では福島第一原発を見学した際に、『1時間あたり1680マイクロシーベルト』とありますが、1時間そこにいたわけでもないし、1シーベルトよりははるかに低い被ばくでしょう。
私自身、毎月福島に行って放射能調査をしています。保育園児や幼稚園児の通園路や散歩道の線量を測り、ホットスポットを見立てて、どうすればいいか提案する活動をしています。南相馬や飯舘、川俣、福島市、二本松、本宮、いわき、郡山などに行っています。その地域にべらぼうに高い被ばくをしている人はいません。もちろん、倦怠感や鼻血の症状が被ばくとの因果関係を示唆するような仕方で出ているとは承知していません。
また、私は事故の5週間後の2011年4月16日、浜通り沿いに北上し8時間ほど、汚染土の採取や空間線量率分布の測定調査を行いました。それでも被ばく線量は22マイクロシーベルトでした。事故直後でもこのくらいでした。
原発を見学した方も、短時間でしょうから、僕よりも浴びている線量は低いはずでしょう。
10~20マイクロシーベルトというレベルかなと思います。その数値なら、これまで言われてきた放射線影響学からいえば、倦怠感が残ったり、それが原因で鼻粘膜がやられて鼻血が出るようなことは考えにくい。漫画によれば、鼻をかむと小さな血痕があったと書いてあるから、そんな大げさではないかもしれないけれど。
相対的に汚染が高かったという原発から60km圏の福島県渡利地区の調査も行いました。渡利地区の保育園の園児90人、保育者20人、そして希望される保護者の方の外部被ばく線量を継続実測調査した。積算線量計というのを配った。行政はガラスバッヂというのを使いましたが、僕はクイクセルバッヂという似た原理のものを使った。寝る時も近くに置いてもらって毎月ごとに測定し1年間測ってもらったんですが、今の状況だと、渡利地区で保育園生活をしている人の被ばくは、1年間で0.2ミリシーベルトいかないぐらいなんですよ。よって、1000ミリシーベルト(1シーベルト)には程遠い。渡利地区にも、鼻血や疲れが抜けないという話は確かにあったが、放射線防護学的に見れば、放射線が直接身体に影響したのではなく、心理的な影響が大きかったのだと思います。
率直に申し上げれば、『美味しんぼ』で取り上げられた内容は、的が外れていると思います。
今回の事故を受けてやらねばならないのは、まずは原発事故で何が起きたかの解明、汚染水漏れ対策、50年かかると言われる廃炉の方法やそのための労働力の確保、そして10万年かかると言われる高レベル放射性廃棄物処理の問題。なのに原発再稼働や輸出という話が出ている。そうした問題はぜひ、取り組まねばならないと思います。
そして、これはお願いになりますが、200万人の福島県民の将来への生きる力を削ぐようなことはしてほしくない。僕自身、わが故郷でもある福島の人々をサポートしていくつもりです。被ばくをできるだけ少なくするにはどうしたらいいかと。そういうことからすると、鼻血や倦怠感といった後付けバイアスの可能性が強い部分を強調されるのは状況錯誤だと思います。放射線医学の実態も反映していない。心理的な影響としてはあり得ますが、果たしてその問題が今のメインなのか。それよりも、18歳以下の甲状腺がんの可能性の問題など、取り組まねばならない問題はたくさんある。そういうことを明らかにすることの方が必要だと思います。
結局、日本人の放射線リテラシーが低すぎるという問題があるでしょう。放射線に関する知識、情報を読み解いて、その危険度がどのくらいかを理解する基本的素養をまったく学校教育その他で就けてこなかった。そのため『放射線を大量に出した原発事故がある福島』と聞いただけでいろんな影響が起きてくることはある。巨大なストレスが生じるような状態になっている。家を放棄して他県に移る人もいるぐらいだから。
もちろん心理的バイアスだとしても、それに対してはきちっと対応しなければいけないことです。が、これがメインの問題かと言われると、それどころじゃない、もっと重大な問題がある、というのが私の意見です。また、福島の200万人のかたが希望を紡ぐような内容を次は書いてほしいと希望します。
なお、放射線と鼻血に関しては、具体的なデータは承知していません。倦怠感に関しては研究はあるが、鼻血については知らない。ただ、放射線を浴びると皮膚がやられるのは事実ですから、粘膜が破れれば鼻血が出るわけで、それは皮膚に影響が出るのと同じですから、一定以上の放射線量を浴びると鼻血が出ることはあるでしょう。
あくまで目安ですが、1シーベルトで倦怠感が出て、3シーベルトで脱毛現象が起こる。5シーベルトで皮膚に赤い斑点。7シーベルトでやけどをします。8シーベルトでは火ぶくれ、ただれが出る。全身に浴びたら、1か月で亡くなる。10シーベルトで潰瘍ができる。イリジウム192という放射性物質を拾ってポケットに入れた人が、尻に潰瘍ができたということもあった。潰瘍が出るのは、そのくらい極端なケースでないと起きません。