平和友の会会報連載「世相裏表」2019年5月号原稿

安斎育郎連載「世相裏表」2019年5月号原稿

0÷0=?

●アンビグラム作家・野村一晟さんの技
 左は「平成」、逆さまにすると右は「令和」。アンビグラム作家・野村一晟さんの有名な作品の一つです。


 アンビグラムとは「文字を上下反対にしたりさせたり、鏡に写したりしても意味を失わ
ないデザイン」のことで、多くは対称形なのですが、野村さんの作品は逆さにすると違う
意味をもったりする点で一味も二味も違います。

数学好きの私には、IXOHOXI(イクソホクスィ)という魔方陣が想い起こされます。

中学校の頃、夢中になりました。左の魔方陣は、縦の列、横の烈、対角線上の列のどこの列の4つの数字を加えても19998になりますが、恐ろしいことに、この魔方陣を上下逆さまにしても、鏡に映しても、鏡に映して逆さまにしても、縦・横・斜めの数字の和は常に19998なのです。アンビグラムは、こうした人間の遊び心の文字バージョンと言ってもいいでしょう。それはアートと言ってもいいでしょうね。
野村さんの作品にいたずらを加えて「平成」の「平」と「令和」の「和」をとって組み合わせると右のようになりますが、上下ひっくり返してみて下さい。
やっぱり「平和」です。まるで、世の中ひっくり返っても「平和」だけは変えたくないという意志をもっているようです。

●「?」=「0÷0=?」
 例は悪いですが、「令和」で数学的に遊んでみます。
 「0÷0は、いくつですか?」と聞いてみると、答えは実にマチマチです。「0」と答える人、「1」と答える人、「不定」と答える人、「不能」と答える人、「無限大」と答える人、「無意味」と答える人・・・・。
 でも、そういう人々に「6÷2=?」と聞けば、答えは決まって「3」です。「どうして3なのですか?」と聞き返せば、「6÷2というのは、6の中に2がいくつあるか、つまり、2に何を掛けたら6になるかと聞かれているわけだから、2×3=6、つまり、答えは3です」というもっともな答えです。

 なぜ同じ思考法を「0÷0=?」に適用しないのでしょうか?
「0÷0」とは、「(2番目の)0に何をかけたら(1番目の)0になるか?」と聞かれている訳ですから、0×?=0の「?」を捜しているということです。
 ところが、「0」は何を掛けても「0」になりますから、0×(任意の数)=0です。ということは、「0÷0」の答えは「任意の数」ということです。10,000でもいいし、-56.3でも構いません。言い換えれば、「何でもいい」ということです。
 私は、「令和」の意味を数学的にからかった人は今のところ知りませんので、これが世界最初の「数学的令和ジョーク」かもしれません。「天皇の代替わりに伴う改元をからかうなんてとんでもない野郎だ」と思われるかもしれませんので、見出しには「例悪令和?=0÷0は?」(例は悪いが令和?)というやや遠慮がちの悪ふざけをしてみた次第です。
 このエッセイの意味は、令和の時代は私たち次第で「どうにでもなる」ということを算数を切り口に示唆しようとしているのですが、ちょっと無理がありますか?

●徳仁天皇の言葉と町の人々の感想
 明仁天皇(「上皇陛下」というらしい)の退位に伴って後を継いだ徳仁天皇の最初の言
葉は、以下のようでした。
 「日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより、ここに皇位を継承しました。
この身に負った重責を思うと粛然たる思いがします。顧みれば、上皇陛下には御即位より、三十年以上の長きにわたり、世界の平和と国民の幸せを願われ、いかなる時も国民と苦楽を共にされながら、その強い御心を御自身のお姿でお示しになりつつ、一つ一つのお務めに真摯に取り組んでこられました。上皇陛下がお示しになった象徴としてのお姿に心からの敬意と感謝を申し上げます。
 ここに、皇位を継承するに当たり、上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いを致し、また、歴代の天皇のなさりようを心にとどめ、自己の研鑽に励むとともに、常に国民を思い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い、国民の幸せと国の一層の発展、そして世界の平和を切に希望します」

 先日、4月30日付で、「平和のための博物館国際ネットワーク」のジェネラル・コーディネータとして毎月発刊している『ジェネラル・コーディネータのデスクから』の「平成最終版」で、「日本では5月1日から元号が変わります」というニュースを紹介しましたが、その中に次のように書きました。
 「日本国憲法によれば、天皇は日本国民ではなく、日本国民統合の象徴です。天皇は憲法上の義務も負わなければ、権利もありません。納税義務もないし、職業選択の自由もありません」

 ご承知のように、日本国憲法第1条には、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」と規定されています。しかし、学説的には、天皇も「国家構成員」であるという点では広い意味での「国民」に含まれるが、「国民統合の象徴」とか「世襲制」などによって「特例的な存在」として規定されているという解釈が「通説」のようではあります。しかし、憲法に規定された日本の天皇制では、国民と(国民ではない)国民統合の象徴としての天皇とを切り分けている訳で、上皇となった明仁天皇が平成最後の誕生日メッセージで美智子皇后(当時)について「自らも国民であった皇后」という表現を用いたことは記憶に新しいところです。つまり、天皇も皇后も国民ではないという認識をベースにしてのことでしょう。新天皇を含めて「国民統合の象徴」ということばをしばしば使うのは、「国民」とは区別される特別の存在であることを意識してのことに外なりません。

 意外なことに海外の人にはこれが初耳だった人もいたらしく、アメリカのビル・ショウさん(Crosscurrent International Institute、※クロスカレント=本流を横切る横流=メイン・ストリームとは異なる世の様々な営みについての国際研究所)からの感想には、「天皇が日本国民でないことを初めて知った」とありました。日本の皇室は「天皇」と「皇族」(皇室典範第5条に定められた皇族とは、「皇后、太皇太后、皇太后、親王、親王妃 、内親王、王、王妃及び女王」のこと)から成り、皇室は一般国民ではないので姓も戸籍もなく、憲法で定められた選挙権も表現の自由も移動の自由も職業選択の自由もありません。
 したがって、確かに特別の存在ですが、多くの国民の間には「皇室独特の権威」に対する敬いが広く浸透しており、とりわけ天皇や皇后の言動は絶大なる注目を集め、国民の意識の形成要因として作用しているように思います。
 そのような観点で新天皇の「御言葉」を見たとき、それは明らかに「平和的」であって、先代の天皇の言動の裏にあった価値観を踏襲しているように思われます。これを聞いた多くの市民(国民)の感想も概ね歓迎的で、「令和の時代も平和が続くといいですね」というコメントが大部分だったように感じます。おそらく新天皇・皇后も先代の天皇の「先の戦争」の犠牲者に対する追悼や慰霊の営みを続けるでしょうし、「国民と苦楽を共にする」思想と行動の一環として災害被害者や社会的被差別者などに寄り添う姿勢を貫くと思われます。
 しかし、天皇が政治のあり方まで踏み込むことは出来ませんので、この先の「令和の時代」に日本社会がどのような政治指導者の舵取りに委ねることになるのか、それは「0÷0=?」で書いた通り、「未知数」というよりも「私たち次第でどうにでも転ぶ」ということなのではないでしょうか。心配は、先の統一地方選挙でも国政補欠選挙でも投票率が史上最低の水準を示し、肝心の主権者の政治への積極的関心と主体的行動力が弱まっていると感じられることです。