出る杭とカナリヤの話 平和友の会「世相裏表」2018年10月号原稿

◇平和友の会「世相裏表」2018年10月号原稿

出る杭とカナリヤの話

安斎育郎

ある講演会の感想文より

2018年8月に「大阪私学助成をすすめる会」のMさんから講演依頼が来ました。先生や保護者だけでなく中高生も参加する「夏の一日学習会」で、オカルト・超能力がらみで手品も演じながら話をしてほしいというのですが、補足説明のところに、東大時代に原発批判でアカデミック・ハラスメントを受けた事情にも触れてほしいと書いてあります。どうも依頼者は立命館大学在学中に私の講義を受講し、そのことが印象に残っていたらしいのです。

8月26日の講演の後、主催者から当日の感想文が送られてきましたが、高校3年生の保護者から、こんな感想が寄せられていました。「すごく楽しいお話でよかったです。専門的に話すと分かりにくいけど、その内容は分かりやすく、笑えて楽しかったです。大学の講義を受けてみたいと思いました。マジックの種明かしはなるほどと思いましたが、すぐ騙されました。やはり出る杭は打たれる」。

感想文の前半は理解できますが、「大学の講義を受けてみたい」という要望は定年退職後の私には応えようがありません。もっとも、立命館大学アカデミックセンターの「おとなの学び舎」では年に6回講義を受け持っており、今年は「日本の『道』を考える─宗教・文化・スポーツを通して」を講じていますから受講できなくはありません。この感想文の問題は最後の一文ですね。「やはり出る杭は打たれる」があまりにも唐突です。

実は、この感想は私が1970~80年代の東京大学医学部放射線健康管理学教室助手時代に原発批判のために冷や飯を食わされていたことを言っているらしいのです。文化庁が発表した2006年度の「国語に関する世論調査」によると、「出る杭は打たれる」ではなく、「出る釘は打たれる」と言う人が約2割いるらしいですが、「並んでいる杭の中でひとつだけ頭が出ている杭は高さを揃えるために打ち込まれる」という意味で、「組織や集団の中にあって才能が際立っていたり、リーダーシップを発揮しようとしたりする人物(出る杭)は、他の出ていない杭の嫉妬を受けて邪魔をされたり、迫害を受けるものだ」ということのようです。私は「才能が際立っていた」のとは違って、東京大学工学部原子力工学科の出身でありながら政府の原発政策に根本的な批判を加え、(ある週刊誌の表現によれば)「反原発のスター」だったことが「出る杭」と見なされた原因だったようです。教室主任のY教授は、おそらく学生時代から手塩にかけた私への期待に対する「反動」もあって、それはそれは様々なパワハラに取り組まれました。今なら間違いなく社会問題でしょうね。

唄を忘れたカナリヤ

西城八十作詞、成田為三作曲の「唄を忘れたカナリヤ」という歌をご存じでしょうね。

唄を忘れたカナリヤは/後ろの山に棄てましょか/いえいえそれはなりませぬ

唄を忘れたカナリヤは/背戸の小薮に埋めましょか/いえいえそれはなりませぬ

唄を忘れたカナリヤは/柳のムチでぶちましょか/いえいえそれはかわいそう

唄を忘れたカナリヤは/象牙の船に銀の櫂/月夜の海に浮かべれば/忘れた唄を思い出す

唄を忘れたカナリヤは「棄てようか、埋めようか、打(ぶ)とうか」と歌い出すこの歌は、童謡としてはとても不気味です。どうも、西条八十が「詩人として生きたい」と願いながら、毎日の生活に追われて株取引などに明け暮れる自分への自省や自責の念をこめて作った歌だと言われていますが、この歌を唄う子どもたちにはそんな事情は知る由もないでしょう。「いえいえ、それはかわいそう」は西条八十の妻の口癖だったとも言われます。

しかし、70~80年代に、原子力の専門家としての教育を受けながら国家の原発政策に根底的な批判を加えざるを得ずパワハラを体験していた私には、「唄を忘れたカナリヤ」は私自身のことのように感じられました。「原発推進の唄」を唄うためにこそ養成されたはずの安斎育郎が「唄を忘れた」どころか、「反原発の唄」を大声で唄っているとなれば、「棄てようか、埋めようか、打(ぶ)とうか」ということになるでしょう。事実、そのような体験を強いられる毎日でした。

西条八十の歌詞は、その後に、「いえいえそれはかわいそう/唄を忘れたカナリヤは/象牙の船に銀の櫂/月夜の海に浮かべれば/忘れた唄を思い出す」と締めくくっています。さて、これはどう解釈ないし評価されるべきでしょうか。カナリヤを「棄てたり、埋めたり、打(ぶ)ったりするのは可愛そう」なのでそんな乱暴な扱いはせずに、月夜の晩の美しい海に銀の櫂で漕ぐ象牙の船を浮かべてそこにカナリヤを乗せれば、「忘れた唄を思い出す」というのです。つまり、原発批判を声高に叫ぶ人間を「棄てたり、埋めたり、打(ぶ)ったりするのは可愛そう」なのでそんな乱暴な扱いはせず、原子力科学の大海に優美に漕ぎ出していく「放射線防護学号」のクルーにすれば、忘れている「原発推進の唄」を思い出すに相違ない─私にはそう読み取れました。「深読みだ」という人もいますが、ある意味ではここに「西条八十の本質」が潜んでいると言えなくもありません。歌の内容を点検することなく、その歌を忘れている今を「悪」ととらえて、それを思い出して再び唄うことを「善」とする暗黙の見方がここに隠されているように思います。実は1970年代の後半、私が日本保健物理学会(放射線防護学の学会)の理事選に第3位で当選して総務理事兼事務局長になったとき、東京電力役員で学会の理事でもあった星野雅之氏が私を東京・深川の馬肉料理屋「みの家」に誘い、「東京電力が全部面倒を見るから3年ばかりアメリカに留学してくれないか」と話をもちかけたこともありましたっけ。

 

西条八十と戦争責任

西条八十もまた多くの文学者や音楽家と同様、戦争に動員され、戦争と関わって生きざるを得ませんでした。草野心平、三好達治、室生犀星、壷井繁治らの詩人たちとともに、「戦意昂揚のための愛国詩」をたくさん書きました。八十は、1937年12月17日の南京入場参観式のために駆逐艦で南京入りし、翌1938年2月号の『日の出』に「燦たり南京入場式」というエッセイを寄せました。

 僕はいつのまにか涙の一滴が頬を伝つてゐるのを感じた。鉛筆をとりあげて、すでに書き終へてゐた「入城式を見たり」の詩のあとに、めちやめちやに咄嗟の感激を書きつけた。

誰も歌はず、もの言はず/太い金文字、石の壁/国民政府の城門に/颯(さっ)と揚った日章旗。

空に満ちてる銀の翼(はね)/地に湧く湧く歓声の/すべてが消えて青い空/わたしはひかる紅一点/その血の色を眺めてた。

ああこの刹那の感激を/求めて遥々旅をした/疲れたわたしの全身に/赤く灼きつくそのひかり。

西条八十は、疑いもなく、日本人好みの七五調で状況を美麗に描き出す作詞技術において優れた詩人だったと言えるでしょうが、いつも言うように、「優れている」とはどういうことかが問われなければなりません。つまり、その能力がいかなる価値を実現するために用立てられているのかを問い続けることの大切さです。

笹原常与氏は『無限』第44号(1981年)の中で、西条八十の第3詩集『美しき喪失』について次のように論評しました。

「現実世界との交渉」にむかった八十の姿勢は正当なものであったが、そうした姿勢に立ってうたわれた作品はしかし、詩的リアリティを持つに至らなかった。おそらくそのことは彼の詩精神が確固とした、深い思想を内包していなかったことに基因するものと思われる。
 繰り返し言うことになるが、詩における「思想」は「思想が思想として容易に認められるごとき」ものではないとしても、それでもなお八十の詩精神には思想が欠けていたように思われる。「思想」と言わずにそれを抽象化にむかう精神の働きといい換えてもよいが、そうした営みを八十は少くともこれらの詩篇において欠いていたように思う。八十が戦時中の「現実」をもほとんど無批判な形で受け入れ、数多くの戦争詩を書き、やがて敗戦後の「現実」とも、そこに自己の主体を真撃にかかわらせることなくほとんど安易な形で融和していったのも、この抽象化の営みを欠いていたことが原因していると私には思われる。そして、そうした素地が、すでに詩集『美しき喪失』の中にはあった。

唄を忘れないために

カナリヤがかよわい生き物であることは広く知られています。炭鉱の採掘に人間が立ちるときにはカナリヤを連れて行きましたが、これは、カナリヤが人間より先に有毒ガスの存在を知らせてくれるからです。あのオウム真理教の山梨県上九一色村の施設を捜査する際にも、警察はカナリヤを連れて行きました。

しかし、弱いものが被害を受けるのを待って防御行動をとるというのでは、いかにも遅すぎる気がします。私が1970年代にとった原発政策に対する警鐘行動は、私がカナリヤ役を演じようとした訳ではありません。しかし、「日本の原発政策には危険が潜んでいる」という警鐘は救急車のサイレンのような分かりやすいサインではなかったでしょう。原子力や放射線に関する科学用語が散りばめられ、「事故の可能性」といった不確定な概念を含め、人々に「明確な警鐘」として理解されにくいものだったに違いありません。

放射線などを監視する装置を「モニター」と言いますが、これも似たような語源をもっています。モニター・リザードと呼ばれるオオトカゲは、身の危険が迫るといち早く防御行動をとるので、このオオトカゲの動きを見れば危険を事前に察知することができるという事情に由来するものです。私は社会のモニターとしての役割を期していたに相違ないのですが、結果としてそれは有効に機能せず、2011年3月11日の大事故に結びついてしまいました。私に直接的な責任はないかもしれませんが、大事故を防ぐための国民的な抵抗戦線を築くために十分に役立てなかったことを悔やみ、その自責の念が54回の福島調査を続けてきた奥底にあります。

いま、1973年から福島県浜通りの原発反対運動に一緒に取り組んできた楢葉町宝鏡寺の早川篤雄住職と、宝鏡寺境内に「原発悔恨・伝言の碑」を建立する相談をしています。まだ案文の段階ですが、そこには次のような趣旨の詩を彫りたいと考えています。

電力企業と国家の傲岸に

立ち向かって40年

力及ばず

原発は本性を剥き出しにし

故郷の過去・現在・未来を奪い去った

人々に伝えたい

感性を研ぎ澄まし

知恵をふりしぼり

力を結び合わせて

不条理に立ち向かう勇気を!

科学と命への限りない愛の力で!

 

早川篤雄 安斎育郎

私の父母は福島県出身であり、私自身も1944年からの5年間を福島県二本松で過ごしましたので、福島は故郷です。早川和尚もこの碑を将来に私たちの悔恨の念を伝える伝言の碑として立派に建立したいと願っています。20年程前、韓国出身の留学生から「カンカンスーオルレ」(言う者は水に流し、聞く者は石に刻む)という諺があることを教わりましたが、石に刻むことによってメッセージが将来に伝わることを期したいと思います。またご支援・ご協力をお願いするかもしれませんが、その節は宜しくお願いします。