ラジオ番組:平和・原発・ひとりごと 2019年6月号

みなさんこんにちは。安斎育郎 平和・原発 ひとりごとの時間がやってまいりました。もう6月ですよね。6月ってことは1年の半分経とうとしているということでなんだか早いような気もいたします。

この番組は僕の「ひとりごと」なんだけど、ひとりごとの字は一人二人の一人に言葉っていうふうに書くこともあるし、独立の独に送り仮名「り」をおくって、そして言葉の言で独り言って書くこともありますね。前者の一人二人の一人言の場合は、1人ぼっちとかね。そういう感じで寂しい感じがしますが、独立の独の方を使うと独りでいも、独自の独立した個人として何か発信してるっていう感じがして、僕はこの独立の独の方を書く方を好んでいますけれども。

今月もまた、ちょっと最近経験したことを踏まえてご報告したいと思います。

実はですね、ごく最近、韓国への5日間の旅に行ってきたんですれども、タイトルは仰々しいんですが「安斎育郎先生同行 平和のための博物館国際ネットワーク協賛 植民地歴史博物館と光州を訪ねる韓国5日間の旅」って言うんで、長い長い名前がついてるんですよね。 安斎育郎先生同行っていうのはえー何か安斎先生が行くと人集めに貢献するのか、そういう名前が付きました。
その次にちょっと変わってて「平和のための博物館国際ネットワーク協賛」って言うわけですよね。
まあ韓国にある、いろいろな平和関係の博物館をひと巡り5日間でするにあたってその国際的な平和博物館のネットワークの代表を務めている
安斎育郎が色々と協賛して協力した、そういう旅なんですね。

で、タイトルにあった「植民地歴史博物館と光州を訪ねる韓国5日間の旅」っていうんですが、植民地歴史博物館っていうのは去年ソウルに出来たばっかりの博物館市民たちが作った博物館なんです。韓国は1910年目時43年からね日本の植民地になって戦争が終わるまで、ずっと日本の支配下にあったんですね。その間韓国の人々は日本植民地主義政府のまあ圧制・圧迫を受けてですね、とても苦しい生活を強いられたんですね。ちょっと政府に反抗的な活動する人などは牢にに封じ込められてその労務をですね、この植民地歴史博物館にも再現されていますけれども、一人だけ入れる牢があって、しかもずっと立ってなければいけない。座るスペースがない。立っている牢
とかですね、それはそれはかなり過酷な刑科した。そういう支配体制のもとで韓国人を日本植民地政府の言いなりにして支配したんですね。
そして、ご承知だと思いますが創氏改名って言って韓国人が韓国語の名前を
名乗ることを許さないで名前を変えさせた。前もとりあげましたけども尹東柱っていう韓国の国民的な詩人がいて、あの時代に日本の立教大学に留学したの1941年ですね。

また日本の植民地支配が続いている時代でしたけれども、その時ユンドンジュも平沼東中という名前で日本に来たんですね。ユンって言う名前、伊藤さんの伊っていう字のにんべんをとった字ですけど、ユンさんその名字を名乗ることを許されずに平沼って言ったんですね。ドンジュっていうのは東の柱って書くんですけども、それをドンジュと読むことを禁止されて、東中ってな日本語読みしたんですね。平沼東中という形で日本では学生生活を送っていたんですが、まぁ、この人もやがて京都の同志社大学に留学して、その間にいとこのソンモンギュなどと朝鮮語で話してたところを朝鮮語で話すことも禁止されたんですが朝鮮独立運動の共謀とみなされて治安維持法違反で逮捕されて、懲役2年福岡の刑務所に送られてそこで妙な注射を繰り返された挙げ句の果てに27歳で亡くなったんですが、その尹東柱が日本にいる時に最後に写真に姿を止めたのが私が住んでいる宇治川の辺だったので、その宇治川の辺に尹東柱の記念碑を作ったんですね。そういうひどい植民地時代の体験というのが、この最近できたばかりの植民地歴史博物館には様々な形で展示されていてこの博物館は人々の寄付によって出来ましたけれども日本の多くの人々も寄付をしておりました。その寄付者の名簿が入り口の壁にずっと刻まれておりました。で 、それからもう一つ行ったのが光州ですが、光の州て書きますね。グワンジュというふうに韓国では呼びますけれども。ここは御承知と思いますね。これは戦後、1980年の5月18日にチョンドファン政権、日本では全 斗煥とこう言ってましたけれども。ここが民衆の民主化運動を弾圧したんですよね。とてもひどい。まあ社会運動などをやる自分の敵とみなされる勢力は片っ端から逮捕したキムデジュンのちに大統領になった人なども逮捕されてですね。それから学生運動などをやってる人を徹底的に弾圧したんですね。

そして、その1980年の5月18日に光州の全南大学で発火点となった民衆のデモ、これに対して武力弾圧を加えましてね。大変大きな被害を出したんですね。その光州。光州事件という名で呼ばれている民衆の韓国民主化運動の様相がどうだったのかということですね。資料館や研究所や518財団など訪ねてきたんですけれどもそういう旅なんですね。

なかなか過酷な旅でありました。
朝から夜までですね1日平均1万歩くらい歩きます歩きますといっても博物館見ている時は皆歩かない。博物館の壁に向かって展示を見ているわけだから歩かないでずっと立ってる。立ってるだけでも疲れますよね。

それでも1日、まあ1万歩ぐらい歩いてるわけだからこれはこれで大変過酷な旅でした。

どんな人が行ったかっていうとまあ定員35人めいっぱい。もう開くのを待っている人がたくさんいるくらいの人気の旅計画でしたけれども、北海道から与那国島までですね、35人。老若男女って言いたいとこだけども
だいたいローローローローかな?

平均年齢は多分70歳ぐらいかもしれない。

わたしが79歳ですからね。
高齢者集団っていうのは旅をすると体調崩したりするので心配されるんですが、驚くべきことにっていうか、幸い一人の落伍者もなく帰ってきたんですね。

初日の5月16日ですがこれはまさに、まあ関空からあるいは東京方面

から来る人は成田から飛行機に乗って、仁川空港韓国の仁川空港ですね。
そこに全員集まってここで初めて顔合わせをしたんですね。

行く飛行機の中でですね、まぁ9時半頃朝発って、まぁ昼前に着く便だからきっと軽食が出ると、それでお昼はそれでいいだろうと旅行会社もおもっていたんですが実際でた軽食が軽軽食って言うんですね。

とっても軽いので向こうに着いたときいう旅行会社これはこのまま昼飯抜きで夕方まで行動したら、初日にして反乱が起こる可能性があるってんでねインチョン空港からソウルのその植民地歴史博物館に向かう間に臨時に朝鮮の韓国の料理屋さんに入ってうどんを食べたんですね。はなかなか気の利いたあしらえですよね。そしてこの植民地歴史博物館に行きますとねそこにはキムヨンファンっていう人物が待っておりました。キムヨンファンさんっていうのは韓国の人ですけれども、日本に長いこといて日本の平和博物館、特に四国の高知県にある草の家という平和博物館のためにずっと働いていた
日本語が僕よりうまいかもしれないってほどうまい人なんですね。で、この人が解説してくれました。
それはそれは見事な日本語で、えぇまぁさっき言ったような日本が植民地支配していた時代の様子を話してくれました。そしてその次の日は安重根て知ってますかね?
昔千円札にあったり伊藤博文という人を暗殺した、まあ朝鮮人で安重根
という人がいるんです。朝鮮ではこの植民地支配していた。その指導者である伊藤博文を暗殺した安重根が英雄なんですけれども。それに関する資料館を見た後、光州にに移動したんですが新幹線の中でもこの集団は勉強を続けましてね。

僕が平和学の基礎を新幹線の中でずっと喋りまくる。そして光州に行って光州事件さっき言った光州事件の傷痕ですね。
そしてその光州事件によって韓国の民主化運動がどんど激しくなっていって1987年にはもう一つの事件が起こりましてね。この光州事件をきっかけとした民主化運動の中で更に政府に対する抵抗運動したパクジョンチョルさんという人が拷問の果てに殺されるんですね、1987年。

その殺されたことに際して 抗議行動もさらに起こって、イハニョルっていう人がその抗議行動の中で催涙弾を頭に受けて死ぬんですね。それに対してさらに抗議行動が全土で何百万人のデモ行進となって起こって、今日の民主化運動のエネルギーとなってきているんですね。

そういうありさまを5日間でたっぷりと見てきたんですね。まあ、あの日本の植民地支配の傷跡それに対してはいたたまれない気持ちになりますけれども、そういうものを引き摺りながら、それからアメリカの後ろ盾でかなり抑圧的な政治をやってきた戦後の韓国社会、それを何とか変えようと思って光州事件を皮切りに韓国の人が今、懸命に民主化に取り組んでいるその最中であるという思いを非常に強くしてまいりました。

今日本と韓国の仲が悪いとか言われていますけれども、政府レベルやマスコミではそういう事ですが行ってみるとそんな感じを受けた人はおそらく一人もいないと思う。民衆のレベルではお互いに打ち解けて交流していけるそういう素地のあるそういう歴史を持った両国ですね。これからお互いのそういう歴史にも理解を深めながら、隣国としてね、この東洋の平和のためにですね、いっそう共同して努力していきたいものだというふうに思いました。

それではまた来月にお会いしましょう。

さようなら。

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