◆平和友の会会報安斎育郎連載「世相裏表」原稿
広島への平和ツアーに行ってきました─その1
- 「安齋肇・しりあがり寿・安斎育郎三人展」のこと
この原稿を書いている4月6日現在、私は、4月14日(土)~4月21日(土)に京都藝際交流協会JARFO京都画廊(今出川河原町下がる東側・河原町トウキュウビル1階)で開催される首記三人展の準備に追われています。昨年、私の喜寿の誕生日(4月16日)の頃に開催した「喜寿記念安斎育郎絵手紙展」の延長線上の企画ですが、昨年も甥の安齋肇さん(福島プロジェクトのクラウド・ファンディングにも協力してくれました)を媒介に漫画家のしりあがり寿さんと共同しました。三人の共同は去年8月15日に福島市で開催された「クダラナ庄助祭り」でも経験済みですが、そのときは私は鼎談だけでなく、第2回バラード選手権大会の審査委員長までやらされました。
今回の三人展は特定のテーマを定めてある訳ではなく、それぞれ全く自由に自分の持ち場を構成し、一体どんな展示会になるのか4月14日の幕開けまで当事者にも見当がつかない危うさと楽しみが共存する企画です。しかし、唯一分かっていることは、昨年の「クダラナ庄助祭り」以降三人が取り交わした絵手紙が基調をなしているということです。どうぞ、心配しながらお楽しみ下さい。ご来場をお待ちしています。私は毎日会場にいます。4月15日、つまり私の喜寿最終日の夕方15時30分ぐらいからは三人のトークがあり、わいわいと「誰でも参加パーティ」を同じ会場で行います。お気軽にご参加下さい。
- 「平和ツアーin広島」に行きました─大久野島毒ガス資料館のこと
北海道から長崎までの36人衆の参加で、「安斎育郎先生と行く平和ツアーin広島」に行ってきました。大久野島毒ガス資料館、やまとミュージアム、そして、広島平和記念資料館。今回も学ぶところの多いツアーでしたが、科学・技術と平和について考えるところの多い旅でした。行く先々での関係者のご協力に心から感謝します。
毒ガスと原爆は、いずれも、ノーベル物理学賞やノーベル化学賞受賞者たちが関わって開発された大量破壊兵器ですし、戦艦大和については、それが戦後の平和的産業技術開発に通じるプロジェクトだったことが主張されます。よく「軍事技術」とは何かが問題になりますが、最初からこれは平和技術、これは軍事技術という区別がある訳ではありません。技術は軍事目的に動員された時に「軍事技術」としての属性を獲得するのだと、30年ぐらい前の日本平和学会で話したことがありました。科学にしても、「2+3=5」という命題はいつも真であり、平和的とか軍事的とかの境目なく、いつも普遍的に成立する正しい命題です。科学も技術も、それが軍事目的に用立てられたときに「軍事科学」「軍事技術」としての属性を得るということでしょう。
科学者から見れば、「自分は真理を追究しているのみ」という言い訳が成り立ちますが、やはり、自分の能力がいかなる価値実現のために用立てられようとしているのか、鋭敏であるべきでしょうね。そのためには相互批判の自由が保障されなければなりません。一人では独善に陥りがちな科学者が、全体として生命や財産を傷つけることに組織的に手を貸すようなことを避けるためには、批判の自由は最も重要なことだと思います。
旅先でも述べたことですが、毒ガスの開発で主要な役割を担ったフリッツ・ハーバーはユダヤ人でしたが、祖国ドイツの国民として認められることを願って第一次世界大戦での毒ガス兵器開発を主導しました。空気中の窒素を固定する「ハーバー=ボッシュ法」の開発者としてノーベル化学賞を受賞しましたが、それは窒素肥料の大量生産に応用され、農業生産の飛躍的発展のために役立ち、数えきれない人々を飢えから救ったと言われています。しかし、一方では同じ科学者が大量破壊兵器開発の開発者として数えきれない人々の命を奪ったことも事実であり、「両刃の剣」としての科学や技術のもつ二面性がハーバーという一人の人間の中に深刻な形で埋め込まれています。その矛盾は、同じ化学者だったハーバーの妻が夫の毒ガス開発への関与を悲観して自殺したことに象徴的に表れています。
大久野島毒ガス資料館は地元の竹原市によって運営されていますが、戦争の時代には地図から消された島の歴史の暗部にかかわる博物館なので、こうした負の遺産を語り継ぐことに価値を見出さない人々からは疎んじられる傾向にあります。毒ガス兵器の生産は1925年のジュネーブ条約(日本も調印)に反するものでしたし、だからこそ地図からも島ごと抹殺したのですが、日本はこの条約を「批准」はしなかったことを理由に、国際法に反している訳ではないという主張もありますし、忠海港から大久野島に向かう船でも、もっぱら「ウサギの島」として紹介されるだけで、毒ガスの「ど」の字もありませんでした。私はそんなに気になるなら「大久野島毒ガス平和祈念資料館」と名称変更するぐらいはあり得るかと個人的には思っています。
- 原爆開発ももう一つの例─ロートブラット博士のこと
原爆についても、問題は同じであることは申すまでもありません。中性子爆弾を開発したサミュエル・コーエンの話を旅の途上で紹介しましたが、爆風や熱線を極力抑え、中性子線やガンマ線で人間を殺す特殊兵器としての中性子爆弾の開発について、「爆風によって手足をもぎ取るわけでもなく、熱線によって人間をあぶり殺すわけでもなく、放射線によって静かに敵兵を殺すのだから、中性子爆弾は人道的な兵器だ」と述べたと伝えられます。戦争政策のもとでは敵兵を殺すことは「国家的善」であり、「国家の指示に従うことはいいことだ」という生き方を選ぶ限り、人を殺す技術の開発が善か悪かについて悩むことはないでしょうが、これはとても危険なことです。わずか3年で原爆を完成させたマンハッタン・プロジェクトには、ノーベル賞受賞者多数を含む最も「優秀な」科学者・技術者が大量に動員されました。ユダヤ人科学者であるジョセフ・ロートブラットもそのような一人でしたが、彼は1945年のナチス・ドイツ崩壊後も原爆開発を続けるプロジェクトのあり方に疑問を持ち、亡命先のイギリスに帰国してしまいました。しかし、時すでに遅し、原爆は開発され、実戦で使用されました。開発した最先端の兵器は必ず使うのが戦争というものだと言われますが、生物兵器も、化学兵器も、核兵器も例外ではありませんでした。京都が原爆投下の第1目標だったことも、ぞっとしながら改めて思い起こしています。ちなみに、ジョセフ・ロートブラットさんとは原水爆禁止世界大会などを通じて1977年から20年間ほどお付き合いいただく機会がありましたが、本当にまじめで誠実な科学者でした。日本の原水爆禁止運動が分裂していた1977年に開催された「広島・長崎の被爆の実相とその後遺に関する国際シンポジウム」では積極的な役割を果たし、東京での会議の後新幹線で広島に向かう途中は同博士の隣席でしたが、当時私がまとめた長崎の原爆投下後の被曝解析の論文メモについてずーっと質問され続けでした。
広島では、国際シンポジウム参加者は広島平和記念資料館を見学したあと「放射線影響研究所」(RERF、その前身はABCC)を訪れたのですが、移動のタクシーの中で次のようなとても興味深いやり取りがありました。ソ連(現ロシア)から参加したラムザーエフ教授がロートブラット博士に「あなたは原爆の研究に加わっておられましたね」と聞きました。ロートブラット博士がマンハッタン・プロジェクトに参加した経験を持つことを知ってのことです。すると、ロートブラットさんは「そのとおりです」と答えましたが、ラムザーエフさんは追い打ちをかけるように、「そうすると、今見てきた資料館は、あなたの作品の展示館というわけですね」と聞きました。その時ロートブラット少しも騒がず、静かに「まったくそのとおりなのです」と応じ、「だから、私は一つ一つの展示品の前で胸の裂かれる思いだったのです」と付け加えました。これには居合わせた一同とても感動し、博士の誠実さを思い知らされました。
ロートブラットさんは戦後「パグウォッシュ会議」を主導されてきましたが、その実績を評価され、1995年にノーベル平和賞を受賞しました。私は戦後50年企画で立命館大学全学上げての国際企画「世界学生平和サミット」に取り組んでいましたが、ロートブラット博士からのメッセージも要請していました。しかし、ノーベル平和賞受賞の時期と重なり、なかなかメッセージが届きません。世界中からのマスコミ攻勢にさらされていた博士ですから無理からぬことですが、私はいよいよ平和サミットが差し迫る中でロンドンの博士の事務所に電話しました。博士は「申し訳ない」と丁寧に謝ったうえで、すぐにメッセージを送ってくれました。80年代の半ばだったと思いますが、原水爆禁止世界大会出席のために長崎を訪れた時には、演説の前の日に関係者で一杯飲みながら夕食をした後のホテルへの帰り道、「安斎さん、明日の長崎での演説で気を付けた方がいいことはあるだろうか」と聞かれました。私は、「とかく長崎は第2の被爆地であることもあって、国際的にも広島ほど重んじられない傾向があります。長崎の人々はそのことについてある種の感情を抱いています」と言いましたが、翌日のスピーチでは長崎への原爆投下の歴史的な意味についてちゃんと付け加えていました。ユダヤ人科学者としてナチスに弾圧されることを逃れてアメリカの同盟国イギリスに亡命し、結果として原爆開発計画に参加する羽目に陥った半生に対する深刻な反省の上に、犠牲者の心に寄り添って生きた博士の温かい心を感じるエピソードがいくつも蘇ります。
(つづく)